叶えられる願いと「叶えられない願い」

前のブログに・・・

以前「「相手に合わせて、妥協する。自分を取り繕う」みたいなことを、していたことがあった、ということ。

ここでいう「相手」とは、たとえば「神を一番にしたいとは思っていない、自分の力で生き延びるべきだと思っている」と思っているような場合であって、

以前までのわたしは「そんな相手とでも、うまくやっていけるはず。ゆずりあって、妥協して、うまくやっていけるはず」と思っていた、ということを書きました。

これを書いた後で、胸の奥にモヤモヤとした感覚が残っていたので、しばらく、そのモヤモヤにとどまっていました。

「相手」は「自分とはこの個の存在のことであり、自分の力で生き延びなければならない。なんとかして自分や自分たちでこの状況を打開しなければならない」と思っている。

わたしは「個人として、自分の力でなんとかしようと格闘することを手放して、大いなる存在に明け渡したい」と思っている。

けれども、「神を信頼すること」を相手に強要することはできない。

わたしもまだ、全面的に神を信頼しきっているわけではなく、まだまだあゆみの途上で、「助け」を必要としているけれども、相手は同じ思いではないようだ・・・

「わたしひとり」で神を信頼するのは、死ぬほどこわい・・・

このような記憶がわたしの中にあるようだ、と思いました。

この記憶は、具体的な特定の出来事というよりも、わたしの中の深い部分に、ずっとあった幻影のような、繰り返し上映されてきたフィルムのような感覚です。

そして、そのモヤモヤを感じていると・・・

神を信頼することはできない、できないのではなくて、したくない、なぜなら、こわいから。

わからないから。見えないし、触れないし、感じられないから。

「わたしのようなもの」は愛にふさわしくないと思うから。

けれども、がんばりつづけることは限界を迎えていて、自力が限界を迎えている。

自分は無力だということを認めざるを得ない。

相手に「これをなんとかする重荷」を背負わせるわけにもいかない。

だから、ほんとうは・・・

ほんとうのほんとうは・・・

わからなくなってしまった神の愛、

見えないし、触れないし、感じられないと思っている神の愛、

そんな神の愛のしるしを、ほんとうは、見たいんです。

そうして、この苦しみから引き上げてほしいし、救われたいんです。

神を信頼した結果として溢れ出る平和や安心を、どうか、この世界で体験させてほしい、見せてほしいんです。

こわくてこわくて、たまらないので、神の愛のしるしをみて、愛が本当だって、証明してほしいんです、その証拠を見せてほしいんです・・・

そして、ほんとうは、その絶対的な神の愛の静かな確信の中で、安心して、平和と喜びを分かち合いたいんです。

わたしは本当は「神を信頼することができない、したくない」のではなくて、その絶対的な神の愛の静かな確信の中で、安心していたいんです。けれどもこわくてこわくて仕方がないので、どうぞ、愛のしるしを見せてほしいんです・・・

そんな”助けを求める懇請”が心の中に響いてきました。

「こわくてこわくてしかたがない」ということ。

「本当は神の愛を信頼したいけど、わからなくなってしまっている」ということ。

「見て、聞いて、感じるもの」ではない神の愛をとてもこわがる気持ちがあるということ。

だから、神の愛のしるしを見たい。愛の奇跡を見たい、体験したい。神の姿を感じたい・・・。

この”助けを求める懇請”が、わたしの中に響いてきました。

そして、その「助けを求める懇請」に対する「答え」は、

ほんとうに、すでに、与えられている、与えられ続けている。

必要としている限り、何度でも何度でも、繰り返し、与えられ続けている・・・。

そんなことを心に受け取りました。

わたし自身が、ほんとうにクリアな心で、心を大きく開き、受け取りたいので、言葉を整理したい、と思ったのですが。

エゴの「証拠要求」・・・たとえば、

「神なんか、愛なんか、奇跡なんか、信じられません。ほんとうに存在するなら、見せてみなさいよ」とか、

「誰かがこう言ってた、本にこう書いてた、だからそうなるんでしょ?あなたがそういったんだから」というものです。

このような「証拠要求」では全然ダメで・・・「全然ダメ」というのは、

このような「証拠要求」というのは「自分自身の愛を、心の力を、自分で踏み躙ることになって」しまっているからです。

自分自身を踏み躙ろうとしたままでは、すでに与えられている愛、そして、そのしるしが、見えなくなる、というよりも、見ないようにしてしまうことがあります。

「〇〇すれば、自分の思い通りになるはず」と「スピリチュアルな教え」を「タスク・宿題」のようにして、自分に押し付けて自分に鞭を打つのも、「愛の代わりに、鞭を自分に与える」という選択になってしまいます。

けれども、聖霊は、そんなことを教えたいわけではない気がする、と何度も何度も思います。

「あなたが想像を絶するような素晴らしい愛、そして、そのしるし、奇跡の体験を、あなたを愛しているからこそ、あなたが愛にふさわしいからこそ、あなたは愛そのものだからこそ、与えたいと思って、ずっと待っててくれている・・・」

そんなことが思い浮かびます。

「この時空間でのあなたの必要、あなたの好み、あなたの夢、あなたの願望、あなたが大切にしたいと思っているもの・・・そのすべてを、わたしは、あなたそしてすべてのために、アレンジできます。あなたが自分を傷つけたり、自分を踏み躙ろうとしたり、自分を鞭打ったりすることなく、愛の奇跡の体験として、わたしがアレンジできます。あなたが同意するなら」・・・そう言っているかのようです。

自分で自分を踏み躙ろうとする「証拠要求」では、心が悲鳴を上げてしまうようなことがあります。

けれども

「こわくてこわくてたまらないんです。愛を信頼するのがこわくてこわくてたまらないんです。けれどもほんとうは、信頼したいんです。どうか、愛を信頼してゆだねても大丈夫だという証拠(奇跡・愛の具現・聖霊の導き)をわたしでもわかるように見せてほしいです。お願いだから、見せてほしいです」

「愛を、愛のしるしを、見たいんです」

「お願いだから、神を信じても見捨てられないという真実を見せてほしいです」

という心の真ん中からの、愛への切実な願いであれば・・・

経験からいうと、これは、必ず、聖霊は聞き、答えてくれます。

しかも、すみやかに。

そんな奇跡を分かち合える日々が与えられていることに、心から感謝です。。。

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