あなたが聖なる目的だけに集中するなら、時間と空間のすべてをわたしが面倒を見ます。
あなたが物質的に必要だと思っているもの、感情的に必要だと思っているもの、精神的に必要だと思っているもの、この世界であなたが「自分にはこれが必要だ」と思っているものすべての面倒をわたしがみる、ということです。
たしか3年か4年くらい前に「このような考え」がいきなり頭に浮かんできました。
それは、そのときのわたしにとっては、まだとてもこわく感じるものだったので、何度も何度も「気のせいだ」と思って、追い払おうとしていました。
書きながら思いましたが、わたしは、追い払おうとしていたのですね。
その頃、奇跡講座のテキストを読みはじめたばかりの頃でした。
読み進めていく中で「あの考えと同じようなことが書いている気がするから、きっと、テキストに書いてあることを思い出しただけだろう」と思うようにしていました。
けれども、何度も何度も「あなたが聖なる目的だけに集中するなら、時間と空間のすべてをわたしが面倒を見る」という考えが浮かんできていました。
「同じようなことを言っている人に会う」ということもあったのですが、なぜか「こわいこと」のように感じていました。「シンクロ」と思わずに、なぜか「こわいこと」と思っていたのです。
この一年は、とても静かな日々を過ごしていて、ゆるし、奇跡、祈りの日々でした。
そんな中で、
あなたが聖なる目的だけに集中するなら、時間と空間のすべてをわたしが面倒を見ます。
あなたが物質的に必要だと思っているもの、感情的に必要だと思っているもの、精神的に必要だと思っているもの、この世界であなたが「自分にはこれが必要だ」と思っているものすべての面倒をわたしがみる、ということです。
このことを、本当の意味で、受け取る、ということがありました。
「外側から得た情報ではなかった」ということでもありました。
それから、その「聖なる目的」について、どういうことなのか、それは一体何なのか、ということを、何度も訪ねています。
聖なる目的。
「罪は誤りであり、誤りは訂正可能であり、すでに訂正されていて、愛だけが実在すると受け入れること」
「その誤りは、神の愛(聖霊)によって、時空を超えて、訂正し尽くされている、訂正され終わっている、という真実を受け入れること」
「外に問題はなく、問題の唯一の原因である心の中の分離の選択(誤り)を聖霊に引き渡し、すでに完了している愛と平安を心に受け入れること」
誤った選択に立ち止まることで、選び直すこと。
いろんな言い方ができそうです。
それは、幸せ・喜び・愛・平和・ほんとうのつながり・ほんとうに満たされていること、歪まなくていいし、なんとかしようと闘わなくていいし、誤魔化そう取り繕おうといつも緊張して警戒していなくていい、ということでもあります。
あなたが聖なる目的だけに集中するなら、時間と空間のすべてをわたしが面倒を見ます。
あなたが物質的に必要だと思っているもの、感情的に必要だと思っているもの、精神的に必要だと思っているもの、この世界であなたが「自分にはこれが必要だ」と思っているものすべての面倒をわたしがみる、ということです。
いま、こうして書いて、読んでみると、ずっと、とくに、2018年から頻繁に、
口から語られ、共に体験を通して受け取ってきてきたことだ、と思いました。
「わたしが物質的に必要だと思っているもの、感情的に必要だと思っているもの、精神的に必要だと思っているもの、この世界でわたしが「自分にはこれが必要だ」と思っているもの」
だから、こういったことを否定しよう・消そうとする必要は一切ないということ。
よくいわれる「願望を手放す」というのは、自分で何とかしようとしようとすることをやめる(やめたいと願う)、ということ。
「執着を手放す」というのは、自分でなんとかしようとすること、苦しみを手放す(苦しみや恐れを手放したいと願う)、ということ。
「わたし」が集中すればよいのは、この「聖なる目的(外に問題はなく、問題の唯一の原因である心の中の分離の選択(誤り)を聖霊に引き渡し、すでに完了している愛と平安を心に受け入れること)」である、ということ。
問題を自分で分析しようとしたり、自分で解明しようとする必要も、一切ない、
抑圧して、否認して、投影して、正当化する必要さえないということ。
なぜならば、自分でこの問題を解決しようとすればするほど、問題に飲み込まれていくから。
だから「問題を分析しようとしていた、自分で解明しようとしていた、自分でなんとかしようとしていた」ということに、何度も何度も立ち止まるかもしれないけれども、
それは、「失敗ばかりしている」という意味ではなくて「前進している証」ということで、それでいい、ということ。
外に問題はなく、問題の唯一の原因である心の中の分離の選択(誤り)を聖霊に引き渡し、すでに完了している愛と平安を心に受け入れること。
幸せでありたい、と望むこと。
それはつまり、今ここにすでに与えられている愛・幸せ・平和を受け入れること。
それはつまり、神聖でありたいと望むこと。
これは、認識・視座の変容のことでもある。