神様の椅子に腰掛ける

「私はもう頑張った、やりきった」 という確信も併せて、

外側を自分の在り方の再現として見られるようになることで、

(これはまだほんの少しの間のことですが)自分に対して強烈な怒りが湧いて自分を攻撃したくなることが減ってきたように思います。

私にとって、一度でも深いところからこれを認められたことが、本当に大きなことだったんだと感じています。

これを認めることができたのは、私がどういう状態の時にも変わらず一貫して同じことを教えてくれていた織絵さんの忍耐強いサポートがとても大きいと感じています。

本当に長い間、私の学びに伴走していただき、改めて心から感謝いたします。 また新しい形で織絵さんと一緒に学びを深めていけることがとても嬉しく、幸せに思います。

Mさんより

Mさんより。

わたしもとても嬉しく、幸せで、ありがたいです。

ほんとうにありがとうございます。

「一度でも深いところからこれを認められたことが、本当に大きなことだったんだと感じています。 」

心の奥深くに、何かが響き渡るような感じです・・・

Mさんが書いてくださっていた(見てくださった、受け取ってくださった)・・・

「忍耐」

いまでは、神さまから与えられている幸せそのもの、としか思えないのですが、わたしは、ずっと前「忍耐」という言葉を誤解していた・・・そんなことをおもいだしました。(そのときは、誤解している自覚すらなかったとおもいますが・・・)

たしか、わたしは、以前は「忍耐」という言葉に対して、

「苦しいけれど、苦しいままでいなければならない」というような・・・

どこか「犠牲にならなければならない、我慢を強いられる」というような・・・

「幸せな結果か、不幸な結果か、祝福が訪れるのか、破滅が訪れるのか、どちらの可能性だってある。そんな恐ろしい賭け事のような、ヒヤヒヤするなかで、凍えながら、無期限に、じっとしていなければならない」というような・・・

そんなイメージ・解釈で、決めつけて、固定して考えていたことがあったようにおもいます。

けれども、いつからだったか、そんなことはすっかり忘れていて・・・

気づいたら「忍耐」という言葉を、あまりにも幸福な感覚と共に、見て、口にするようになっていました。

いま、「忍耐」を、ほかの言葉で言い換えてみるなら、

幸せであること、確信、信頼、明け渡し・・・

すべてを無条件の愛にゆだねている感じ・・・

「結果をじっと待っている、展開をじっと待っている」というよりも「いま、ただ、幸せである」ということ。。

「直線の時間」からはすっかりと解放されきっており、ただ今という永遠の中で愛されている・・・

ここでは「犠牲」や「我慢」や「辛抱」ということが「そもそもありません」とでもいうかのようです。

それで、あるときから「忍耐という幸せなレッスンをたくさん学びたい」と思うようになりました。

ほんとうに、ありがとうございます。

いまおもえば、ずっとこうして、信頼や忍耐という幸せなレッスンを与えられ、受け取り、みなさんと分かち合ってきた・・・そんなふうなことを、書きたくなりました。

「わたしはもう、ほんとうに、よくやった」

「あなたはもう、ほんとうに、よくやった」

そんなふうに認めることを、自分に許すとき。

そうして「ふぅ」と息をつき、椅子に腰掛け、力みをほどいて、リラックスをするとき。

これを書きながら、神さまはその椅子のようだ、その椅子に安心して腰掛けて休んでいいんだ・・・とおもいました。

「本当に長い間、私の学びに伴走していただき、改めて心から感謝いたします。 また新しい形で織絵さんと一緒に学びを深めていけることがとても嬉しく、幸せに思います」

と書いてくださっていて・・・わくわく、ときめきを感じます。

こちらこそ、心から感謝いたします。

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