「お金はエネルギーなんですか?」
「お金はエネルギーなんですよね?」
といったご質問をよくいただきます。こちらでもお返事を書かせてください。
「お金はエネルギーなのかどうか」でいうと、お金はエネルギーかもしれませんが、それでいうなら、
「この宇宙のすべてのもの(物質)はエネルギーを持っている、質量そのものがエネルギー」といったような、物理学のお話になってくるのではないかとおもいますので、物理学に関心をお持ちなのでしたら、物理学の先生に尋ねたほうがいいのでは・・・と思ったのですが、いかがでしょうか。
「いや、別に、物理学へと呼ばれてる感じがするとか、興味関心があるってほどでもないかな」
という場合。その場合は、何が気になっていらっしゃるのだろう?という問いが浮かびます。
「たったひとつの心、たったひとつの愛へと戻る」という聖霊のプロセスにおいて、「外に問題もなければ、解決もない。外の物理的な何かそれ自体が救いの源泉ということはない」ということを何度も思い出します。
それはつまり、何度もわたしは「外に問題がないので、外に解決もない」を手放して、「外に問題があり、外をなんとかしたら安泰だ」を選んでいたかもしれない、ということに、何度も立ち止まり、赦しを学び、癒されていくということです。
何度も立ち止まり、選び直し、心の力が輝いていく、ということでもあります。
これは、エゴを、恐れを見て、闇を光へと運ぶことでもあります。
「お金がエネルギー、すべてエネルギー・・・」という文脈で書くなら、その次に思い出されるのは、
「神様、私は存在しません。ただあなただけです」です。
起こる運命にあることは起こります。それは避けられません。
しかし運命を克服する、あるいは、運命に依存しない方法が二つだけあります。
一つは、この運命が誰にとってのものなのかを探求し、運命に束縛されているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。
もう一つの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」と常に言うことで、神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままに自分をゆだねることです。
引用:福間巌「真我 ラマナ・マハルシ」 ナチュラルスピリット(Kindle版 138ページ中の92ページ/ 第三章 明け渡し)
探求も、明け渡しも、「どちらかひとつ」というよりも「ひとつ」なのかもしれないとよくおもいます。
そして、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」・・・わたしは、この言葉に、心の奥で深い深い安心を感じます。
自分の限界を認め、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」ということが歓喜となるまでいう・・・そのようにして、過ごしていたことがありました。
「〇〇になったら、幸せになれる、安心できる、愛される」と思うとき、それをそのまま聖霊のもとへ運ぶことは必要です。
何が好きと思っていても、何がほしいと思っていても、何をしたいと思っていても、そのすべてを聖霊にすっかり渡してしまうなら、聖霊はそれを悪夢ではなく幸せな夢を見るため・・・そして、目覚めるために、使ってくれます。
そのとき、誤魔化し、ふり、守ろうとすること、嘘、隠すこと、はやめていく必要はあります。
誤魔化し、ふり、守ろうとすること、嘘、隠すこと・・・それが悪いこと、今すぐ捨て去るべきことということではないです。ある意味それは「人間としてよくあること」のようなことです。
けれども、隠されたところに、聖霊は入ることがありません。
聖霊は無理やりもぎ取るということを、しません。
何よりも、誤魔化し、ふり、守ろうとすること、嘘、隠すこと・・・そんなふうに心でがんばっているとき、疲れるし、緊張するし、惨めだし、苦しくなります。それは「愛そのものであるあなた」に相応わしいものではない、あなたにはただ愛が相応わしい、ということを、伝えてくれているようです。
自分が好きだと思うこと、したいと思うこと、ほしいと思うこと、自分で描いた小さな計画、お願い事も、お金も人生も、すべて、そのまま聖霊のもとへと持っていきます。
「このすべてをあなたに捧げます。あなたが、このすべてを使って、わたしがこの苦しみ、惨めさ、制限、呪縛から抜け出せるようにしてください。自我と悪夢を見るのではなく、あなたと幸せな夢を見て、”お家”へと帰りたいので、どうぞ、あなたが導いてください。道を示してください。あなたの導きに心を傾けて、従います」
「神様、重荷は、すべて、あなたのものでした。このすべてを、いま、あなたにお返しいたします。わたしの責任は、すでにいまあなたから与えられている愛に、心を開き受け入れることだけです」
「このお金も、あれも、これも、それも、わたしの心も、わたしの身体も、わたしの人生も、すべてあなたのものです。あなたが道を示してください」
と祈りを捧げることもできます。
最初は「私」や「私のもの」がたくさんあるように思えるかもしれなくて、その分、たくさん祈るかもしれません。
「このすべてをあなたに捧げます。あなたが、このすべてを使って、わたしがこの苦しみ、惨めさ、制限、呪縛から抜け出せるようにしてください。自我と悪夢を見るのではなく、あなたと幸せな夢を見て、”お家”へと帰りたいので、どうぞ、あなたが導いてください。道を示してください。あなたの導きに心を傾けて、従います」
と祈るなかで、あまりにもすぐに心が落ち着いて、思わずほほえみが溢れた、ということもあるかもしれません。
導き心を傾けて従うなかで、ある日、あるとき、ふと、心に不思議なほどに美しい静寂、平穏が広がっていることに気づくかもしれません。
「わたしはただ、生かされている、養われている」という感じがしてくるかもしれません。
そして、それにありながら、この心さえあれば、何かがそうなったとしてもならなかったとしても素晴らしいというようなおもい、自然と湧き出ている泉を感じるかもしれません。
無条件にいまある源泉です。
そして、その泉は、自ずと、さらに幸せな夢、幸せな旅へと、出かけていた・・・と、少しあとになって、気づくこともあるかもしれません。
「何をしてもしなくても、幸せで愛されていて満ち足りている」というときには、きっと、その幸せは自ずと分かち合われていく、それは、この世界の体験として、しるしとして、エコーとしても、映し出される・・・
溢れ出てくる泉は、山頂だけに留まらないもので、あなたの中にある愛はすべての中にある愛と出会っていく、というのを、自力でなんとかしようとせず、見せていただく日々は、なんて幸せなことなんでしょう、とおもいます。