今日はとってもよくいただく”お題”、メールへのお返事を書いてみたいとおもいます。
複数名の方々からいただいたメール、ご質問の内容をわたしのほうで要約させていただくと・・・・
このブログをずっと読んでくださっている、セッションを受けてくださっている、という背景の方から、
・YouTubeや書籍で、いろいろな「精神世界・心・スピリチュアリティ・真理・法則など」に関連する発信に触れ
・「これはおりえさんのブログのパクリなのでは!?」というような考えが出てきて、モヤモヤする。。。
という内容です。
インスピレーションを、ありがとうございます。
最初に「単刀直入な答え」を置かせていただくと、
たとえるなら「カレーがあり、様々な種類のカレー、様々な作り方のカレーの作り方があり、カレーの作り方のベースとして大昔に先人たちが確立し、受け継がれてきたものがある。自宅でカレーを作っている人や、カレー屋さんがたくさんある。どのカレーにも本当は優劣や正解不正解があるわけではない」みたいな感じなのかな、とおもいました。
ここで、わたしがいままで経験してきたことや、いま思うことについて、書いてみたいと思います。
わたしがブログをはじめたのは2018年頃でしたが、それよりも何年か前「精神世界・心・スピリチュアリティ・真理・法則など」に関連する本を読みながら、
「どれも同じことが書かれてあるように読めて仕方がない」
と思っていたことがあります。
当時は、深く考えず、ただ「どれも同じだ・・・」という、言葉を失うような感じ・・・これはもしかしたら、小さな法悦の感じに近いかもしれません・・・に浸っていました。
そして、2022年か2023年頃に、わたしは奇跡講座と出会ったのですが、そのとき「同じだ・・・」という、また、言葉を失うような感じ、このときは、以前感じていた感じよりも、はるかに深く大きいような感じを感じていました。
ちょうどその頃は、奇跡講座以外でも、ほかの教え、ほかの理論、ティーチャーの方々にお会いする機会をいただいたとき、
「同じ・・・!」
という、言葉にはうまくできない、静かな驚きというのか、法悦ともいえるような、なんともいえない感覚がありました。
そして、そのあとで、大きな恐れが出てきたことも覚えています。
「世界は、ほんとうに、いままでわたしが思っていた感じとは全然違うのかもしれない」というような・・・
「いままで慣れ親しんできたいろんなものが崩れ去っていってしまう」というような・・・
壁、差異、個性、境界、時間、距離・・・そういったものが、ほんとうのほんとうのほんとうに、なくなってしまう、自分が自分ではなくなってしまうのでは、世界も世界ではなくなってしまうのでは、それはいやだ、こわい、という感じでもありました。
怯えていました。
「小さな自分、自我が、消えてなくなってしまうことがこわい=たったひとつの愛がこわい」と思っていたのです。
いま、思えば、この「同じ」という感覚は、物心ついた頃からありましたが、いままでは、そのことを、すっかり忘れていたというか、認識が薄かったような感じだったかもしれません。
「真実はたったひとつであり、道はたくさんある」といいますが、まさにそうです。
同時に思い出すのは「月を指す指」という言葉で、
これは、「真実や本質(月)」を伝えるための「手段や言葉、文字(指)」のことを意味する仏教に由来する比喩表現のことで、
「手段や言葉(指)」そのものにとらわれて「本来見るべき真理や本質(月)」を見失っていなかったかな?ということに立ち止まらせてくれます。
「真実はひとつであり、その道はたくさんある」
そして、それは、すでに大昔からあって、それを先人たちは、生き、歩みを残してくれていて、こうして受け継がれている・・・ということを思うことがあります。
それは、そのときどきで「その時代にフィットした言葉」になったり「傷ついて怯えている心にあたたかく寄り添う形」になったり、ということはあるかもしれません。
真実、幸せのため、そのための具体的な教えについても、大事なことは、もう、ぜんぶ、出尽くしている・・・そう思っています。
わざわざ「”わたしが”、何かを教える、発信する」必要なんて、ないほどです。
その上で、わたしは、ブログで、経験を書いてみたり、そのとき心にあるものを言葉・文章にしてみたいと思ったり、なにか形にしてみたいと思うことがあり、ブログを書くことがありますが、それについて「自分だけのオリジナルである」と感覚したことはありません。
全部同じなので、いろんな言葉で言い換えられますが、そのときどきのわたしなりの言葉で形にしてみたい、という思いもあったのかもしれない、とも思います。
けれども「自分のオリジナル感」はありません。
もしかしたら、これが「聖霊、どうぞあなたがわたしを通して働いてください」ということなのかもしれない、とこれを書きながら思いました。
すべて先人たちから与えられているものであり、条件付けの世界の中で神を感じたご縁・シンクロ・奇跡であり、けれどもそれは確かに”神の愛”からのものであり、「自分がひとりで」何か新しいものを生み出したということはひとつもありません。あまりにも多くの光をいただきました。敬意、尊重、尊厳、尊敬、感謝・・・そういったものが、わたしの中にあることを思い出させてくださいました。
そうして過ごす中で「もしかしたら、これを求めていたのかもしれない」というのは、たくさんの人々(奇跡講座や聖書では兄弟姉妹という言葉を使いますが)
「たったひとつの兄弟姉妹」と出会って、対話して・・・というところなのです。
よく「もし、ブログを書いていなかったら、そして、セッションしていなかったら、絶対にこんなにも素晴らしい絶景を見ることはなかっただろうな」というようなことをよく思っていて、それは、言葉に尽くせないほど素晴らしい奇跡体験であり、癒しそのものでした。
「ブログで、自分自身の経験を書いたり、そのとき心で受け取っているものを言葉・文章にしてみたいと思ったり、なにか形にしてみたいと思うことがあり」と書きましたが、
同時に何度も、「ブログじゃなくても、日記帳でもいいよな」と思っていたこともあります。実際にそうして過ごしていた時期もあります。「もう、それでも十分かも」というような気がしていたこともありました。
けれども、セッションやグループセッションでの言葉に尽くせないほどの素晴らしい体験、癒しそのものは、言葉をはるかに超えるものです。
いただいていたメール、”お題”へと戻ると、
「あっちと、こっち、同じ・・・?」と気づきはじめる・・・というのは、
その「あれとこれ、あなたとわたし、一見別々に見える二つ以上のものに、同じ光を見る」
という奇跡の訪れなのでは・・・と思いました。
「あなたとわたし、別々に見える二人(二人以上)に、違いをみない、同じたったひとつの光を見る」
これは、奇跡・・・そして、すべてが癒やされていく”見方”なのではないでしょうか。