「わたしがわたしを裏切る、見捨てる」と「深い安心」の話

「わたしは誰かに(何かに)裏切られた」

という考えを、試しにひっくり返してみると、

「誰かは(何かは)わたしに裏切られた」

「わたしはわたしに裏切られた」

「神はわたしに裏切られた」

となります。

この「ひっくり返す」は、バイロンケイティワークにも出てきますし、鏡の実践をするときよく使っていたものです。

この「わたし」とは何なのか?という問いを、ずっと持ち続けていました。

「期待と裏切り」というテーマについて考えるとき、思い出す一節があります。

このメッセージは、あなたを真我に目覚めさせるためのものです。

あなたがもう一度、わたしの存在、つまりあなたの聖なる自己に気づけるよう、意図したものなのです。

わたしの存在に十分意識的になる事で、あなたがもう二度と、自分自身であると信じ込んでいた「別の自分」、つまり、決して満足する事のない感覚的快楽や物質的気晴らし、感情的な遊び事で肥大させてしまった自分に、もう二度と裏切られないように。

目覚めの前に、この「別の自分」をきちんと知る必要があります。

引用:イエスソングス文庫,改訂版 インパーソナルライフ,ジョセフベナー著,大湾洋乃訳,九章 地上の楽園

はじめて読んだとき、なんてクリアなんだろう、と感動しました。

確かに、わたしが「裏切られた」「思った通りにならなかった(落胆)」というとき、いつも、この「別の自分」を見る事になりました。

「別の自分」

・決して満足する事のない感覚的快楽や物質的気晴らし

・感情的な遊び事

によって「肥大させてしまった自分」に裏切られ続けていたのです。

長い間、わたしは、

・苦痛快感と喜び

・恐れと喜び

・愛と罪悪感

・恐れと畏れ

・期待と信頼

・自信と万能感

この違いがまったくわかっていなかったのです。

まったくわかっていないことにも気づいていませんでした。

そして「希望」を抱いても裏切られる、と思っていたのです。

それは「誰か」のように思えることもあったし「夢」だったり「素敵な展開、幸せな未来」だったりしたこともありました。

「わたしがわたしだと思っていたわたし(別の自分)」が裏切っていたのは「本当のわたし」。

その中では「本当のわたし」は「わたしがわたしだと思っていたわたし(別の自分)」に「裏切られていた」ということになります。

だから「わたし」は「わたし」を見ることが、とても恐ろしいような、居心地の悪いような、気がしていたのかもしれない、と思うのです。

そして、逃げ回り、また「決して満足する事のない感覚的快楽や物質的気晴らし、感情的な遊び事」を「生きている実感」のようにして、求め続けていた、それを繰り返していたことがありました。

けれども、あるとき、”幸運なことに”、

激しい落胆、無力感、そしてそこから這い上がることもできずに、絶望のどん底に沈み込んだことがありました。

そこ(絶望のどん底)に、ただもう、静かに座るしかなかったのでした。

そして、その「絶望」を、そのまま(直接)体験したとき、そこには、わたしがずっと求めていたはずの充足感(すでに満たされている感覚、安心感、落ち着き・・・)があることを知りました。

そして、それは、ずっと、そこにあったこともよくわかりました。それは、不動なのです。

「本当のわたし」は、裏切られることは不可能であったことも、よくわかります。

「別の自分」が「本当のわたし」を裏切ることはできませんでした。

けれども「別の自分」を「自分」だと思っているとき、「大切な何かを裏切ってしまった、見捨ててしまった、踏み躙ってしまった」「わたしがわたしを馬鹿にして、見下している」という痛みがいつもつきまとっていたようだったな、と思います。

目次