自分軸=他人軸の話

以前、バイロンケイティワークでバウンダリー(境界線/これは誰のビジネスか?)の確認ワークを続けてみたところ、神の領域しかないということ、一体性・・・という気づきが訪れた、というブログを書いたことを思い出しました。

「境界線」というと、以前は「これは分離を促すことになって、愛(ワンネス/一体性)とは調和していないのでは?」「あなたはあなた、わたしはわたし。別々です、という分離を促進させるのでは?」というようなことを思っていていたことがありました。

けれども、正直になるならば、このときわたしが感じていたものは、どちらかというと「境界線を見ることへの抵抗(自我がそっちにいくなと言っている感じ)」でした。

「聖霊は、間違った目的のために作られたものを、真の目的に向けて使い直すことができる」・・・

「もしあなたが承諾するなら、聖霊は目覚めのために夢を用いることができる(中央アート出版 奇跡講座 T-8.IX.3:8より引用)」・・・

・・・とは、こういうことなのかな???と思ったことでもありました。

「境界線/それは誰のビジネスか?」という問いかけによって、「人は人、わたしはわたし、という分離」ではなく、「すべて神の愛の中にある」という感覚は、聖霊から与えられたものだとしか思えない、そんな感じがしています。

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境界線のことを思い出していたら、「自分軸/他人軸」についても思い出しました。

あるときから、自分軸=他人軸と見えるようになったのですが、その話です。

以前は、確か「他人軸だから苦しい。だから自分軸を大事にしてみよう」というような、極端にいうなら「他人軸より自分軸の方が自由であるはずだ」というような決めつけが、わたしの中にあったように思います。

けれども「他人軸のご相談」をたくさん聞かせていただいているうちに「他人軸」という場合、

相手の神聖性を見る(=与える)、感謝する、敬意を払う、調和を願うというところが、あまりにも自然に”されている”ことが多いと思うようになったのです。これは、あまりにも美しいことです。

もちろん、恐れが上がってきているとき(=奇跡の機会としても受け取ることができる)には、「感謝ができない」感じになったり、やたらと誰かや何かの意見に振り回されるかのような考えが展開されて苦しくなったり、と、バランスが崩れることはあるかもしれないけれども、

「恐れが上がってくるときにバランスが崩れる」というのは、他人軸であろうが、自分軸であろうが、同じです。

「自分軸」というところで、わたしなりに受け取ってきたことを書くと、

・いまの自分が感じていること、思っていることを、シンプルに率直に言語化する練習になる

・「いまわたしはこう思っているんです」という思いを、裁かず、正当化せず、ただそのまま認めていく練習になる

・「わたしはいま何を感じているんだろう?」という問いがいつも浮かぶ

などで、これは、本当に素晴らしいギフトです。

ほかにも「自分軸」というところで、思い出すのは、

・自分の中のわがまま、自己中心性、ドロドロトゲトゲした考えの直視へと促される

・自分の傲慢さ、コントロール欲求、無力さを直視することになる=神への降伏(サレンダー)へと促される

というようなところもあり、これは、大きな赦しを学ぶ機会、奇跡の機会であり、感謝してもしきれないほどありがたいことでした。

なんというか「聖霊に捧げるための、奇跡の道具がたくさん見つかる」みたいな感じがありました。

・「自分軸」といっても、そこに排他や裁きや嫌悪が混ざるなら、自我の模様が繰り返されることになる

・「自分軸」というのも、よくみてみると、「実は、外側の誰かや何かを基準にしていた(正解を外に置いていたままだった)」ということがある

という気づきもありました。

「外側の誰かや何かを基準に作っている軸」というのは、「みんながこう言ってるから、常識はこうだから、だってそうだから」と他者・外側がそのままが基準になっていることもあれば、

たとえば「親がこうだ。世界がこうだ。だから自分は反対になろう。」という形で「実は隠れて他者・外側を基準にしていた」ということもあります。

他人軸であっても自分軸であっても、それが自我に捧げられているとき、それは、自我軸となります。

けれども、聖霊に捧げられるとき、それは聖霊軸になる、いまはそんなふうに思います。

「たったひとつの聖霊軸(愛軸)」を、もし、この世界で、人間であるわたし、わたしたちが確かにそれを見るなら、体験するなら。

それはまさに、ありえないほどの喜びと幸せ、奇跡ではないでしょうか。

聖霊に捧げられる中で、他人軸も自分軸も、愛に戻るために使われてれ、ただ”一なる存在”を共に思い出すプロセスになるようです。

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