全母親へ捧げる花束の話

いま、なぜなのか、わたしの中に「全母親に感謝と敬意を捧げたいかのような思い」が溢れています。

わたしは、2018年〜2022年くらいまで、「とても個人的な思い、体験談」をブログに書いていました。

「とても個人的な思い」をインターネット上のブログに書く、ということは、

「わたしのことだけ」でなく、「わたしが書いた人々のこと」まで書く、というようなところがあります。

半分くらいは「わたしの投影物語」として書いていたと思いますので、

「わたしからはそう見えた、わたしからはそう見えてしまっている」ということで、これは「ただのわたしの解釈で、事実とも真実とも異なる場合がある」ということですが、

読む人、というか、読む時期によっては、その投影の部分(恐れや罪の意識の部分)で共感し合ってしまうようなところもあるかもしれない、と思っていました。

その上で、自分の名前も公開しておりませんでしたし、プライベートな内容(とくにわたし以外の誰かが関わる内容)については「内容・事実が歪みすぎない程度に少しずらして書く」ということをしていました。

それは、わたし以外の人々の”個”に敬意を払いたい、という願いに、聖霊が与えてくれたひとつの形だったように思っています。

そして、その中で「母との関係」はわたしにとって、とても中心にあることのひとつでした。

なので、母とのことは、何度も、ブログに書いていた気がします。

もう一度いいますが、最低でも半分は、わたしの投影物語であり、わたしから見た母であり、です。

ほんとうは、わたしは、母のことが大好きで大好きで、大切にしたくて、仕方がなかったのですが、

「つながりたいのに、つながれない」というような葛藤、愛憎感情のようなもの、数々のエゴの価値判断が、わたしの中にはいつもありました。

ほんとうは、つながりたかったのです。

尊い存在として愛し合いたいと切望していました。

そうして、5年近く、ブログを書き続ける中で、あるとき、

ほんの一瞬(数週間か数ヶ月くらい)でしたが、母と過ごしてきた日々の背景に満ちていた慈しみ、慈愛のようなものが、溢れ出てくる、という体験が訪れました。

子供がほしいと、姪っ子たちと祈りを捧げていた母。

そして、「そこに飛び込むようにして生まれてきたわたし」。

やわらかで、ふわふわで、あたたかな、母の肌。体温。

明るく解き放たれるかのような声。

切ないようなのに、暗い感じがしない、不思議な鼻歌。

そして、わたしを見て、いつも、不思議そうにしていた、母のまなざし。

今日、「心が健康になれば、不登校だった子どもも楽しく学校に行くようになる」というフレーズを見かけました。

わたしは、小学生、そして、中学生から本格的に、不登校になり、外に出ることができなくなったことを思い出しました。

たしかに、わたしはその頃「自分は健康ではない、病んでいる、不幸である」ということに、直面していました。

母も、みんなも、できる精一杯をしてくれました。

わたしも、そのときのわたしなりに、できることはしました。

けれども、わたしの場合は「学校に行く」という行動にはなりませんでした。

わたしはこのことを、わたしや母の努力不足だとか、心の在り方が間違っていたのだとか、心が癒されていないから・心が不健康だったからだ、というふうには、

いまは、一切、思っていません。

そして。ここ数日。

ちょうどマズローの欲求階層説に関するブログを書いていましたが・・・

もしかしたら、10代の頃のわたしは、世間や一部の心理学の視点から見ると「1〜5の欲求が満たされなかった・満たさなかった不健康な期間」というラベルを貼られるかもしれない、もし、そうだったとしても、わたしは何も言うことはない、と思いました。

けれども、わたしたちに与えられた気づき、そして、奇跡は「自力で世界に適用しようとしたり、自分が自分で満たそうとしたりするエゴの運動を退け、聖霊と共にある静けさを受け入れ、第6の視点を認めるために必要不可欠だった尊い期間」である、ということです。

わたしは、10代のあの頃、1〜5の欲求というよりも、6段階目の欲求(自我超越・全体性への謙信)へと開いていく期間として受け取っています。

そして、母・・・父も、祖父母も、病院の方も、みんなも・・・

ほんとうに、なくてはならない存在で、完璧でした。

わたしは何度も母に「お母さんはほんとうに完璧にわたしを育ててくれたし、よくやってくれた。お母さんじゃないと、同時のあのわたしを育てられなかっただろう、とよく思うよ」と何度も言いました。

とはいえ、わたしは、いまもまだ、母に「影を投げてしまう、罪をみてしまう」ことは、たくさんあります。

その度に「聖霊、祝福してください。この関係をあなたに捧げるので、神聖な関係に戻してください」と祈っています。

わたしにとって、母は、愛の奇跡、癒し、救いへと引き上げてくれた、ピカピカの鏡のような感じです。

ちょうど、今日のお昼頃、母からスマホの使い方のことで電話がかかってきました。

「今日が期限で、今日中になんとかしなければならないことがあるのに、スマホの使い方がわからなくてできない」とのこと。

今日は、母は昼から夕方まで用事。わたしは夕方から夜まで用事。。。

このような「すれ違い」というか、時空間的に無理・・・ということが、これまでなんでも繰り返されていた気がします。

なんだか、今日は、母が、わたしの中の聖性を見たい、と言ってくれているかのようだ、と思ったので、

反射的に「無理」と反応せずに、祈り、尋ね、導きに従うことにしました。

レッスン38−私の聖性にできないことは何もない。

あなたの聖性は世界の法則のすべてを逆転させる。それは、時間、空間、距離、そのほかどのような種類の限界による制約もすべて超越している。(中央アート出版 奇跡講座 W-pI.38.1:1-2)

あなたの聖性を通して、神の力が顕現される。あなたの聖性を通して、神の力が手に届くものとなる。そして、神の力にできないことは何もない。(中央アート出版 奇跡講座 W-pI.38.2:1-2)

そんな母との会話が、なんだかとてもあたたかくて。

「全母親に感謝と敬意を捧げたい」という思いが溢れてきていました。

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