プロセスに寄り添うということ

止まらないかのような怒り・イライラ・苦しみ、について。

(1)自己一致(自分自身のそのままに感情や考えや欲求、状態に素直に正直であること)

(2)自分自身への本音、本心、”自分よりも大きな何か”への関心があること

(3)他者や何かに批判、非難、文句、不満をいうことが悪いこととか、天罰が下るということではない。けれども、他者や何かに批判、非難、文句、不満をいうとき、心が重くなり、疲れる感じ(憑かれる感じ)がして、傷つくのは自分自身である。つまり自分を傷つけていることになる(批判、非難、文句、不満をいうことというのは、実際に口にしている場合も、心の中で思っている場合も同じです)

(4)「自分が心の中で罪として責め、隠したものを、外側の世界や他者に罪として見つけて責める仕組み」=「投影」を受け入れることで、自分自身をゆるしていくこと

↑こういったことは「最低限、自分が自分の心の解放、幸せ、自由ために、思い出していきたいと思えること」として、あらゆるレイヤー、あらゆる文脈で語られていることでもあるかもしれません。

そして、それを実践し、わたしたちは、たくさんの奇跡と癒しを分かち合ってきました。

しかし、それでも、怒り・イライラ、あるいは、苦しみがまた出てくる、ということがあります。

ある意味、そういうものなのかもしれません。

奇跡→影・恐れ→奇跡→影・恐れ→奇跡→影・恐れ→奇跡→影・恐れ→奇跡・・・みたいな感じで、

「奇跡によって、恐れが押し出され、洗い流されていっている」そんな感覚がよくあります。

なので、奇跡、そして聖霊というのは「プロセス」に「人間」に、ひたすら寄り添ってくれるものだ、と感じることがあります。

ここでいうプロセスというのは「この世界、この時空間で生きていると思っている人間としてのわたし」の一歩一歩の歩み、道のりのことで、

聖霊はひたすらこの「人間としてのわたしのいまの一歩」に合わせてくれて、愛の奇跡が見たいと願えば与えてくれて、そうして、神の愛への警戒心を優しく解き、引き上げていってくれるかのようだ・・・と思うことがあります。

なので、奇跡(奇跡のコース)というのは、ほんとうに、実用的というのか実践的というのか、「人間としてのわたし」「真理を忘れてしまったわたし」、今のそのままで、ただ、心を開いて信頼して実践していけばよい、時間の中においてその練習の積み重ね、という感じがします。

なので「怒り・イライラ、あるいは、苦しみがまた出てきた」ということを、後退している証と思う必要もなければ、失敗しているしるしと思う必要もない、ということは明確です。

わたしも「怒り・イライラ、あるいは、苦しみが、また!!、出てきた」ということがあって、

あるときから、それは「たったひとつのテーマ」を示しているかのような感覚がしていました。

長い間、このことをシンプルに言語化することができなかったのですが、いま、それを言葉にすると「相手の物語に巻き込まれることについての拒絶反応」というものがずっとあったようなのです。

「相手の物語に巻き込まれることについての拒絶反応」。

これは感情としては、怒り・イライラ、そして「嫌だ!」と叫びたくなるような感じ、などです。

身体反応も強く出ていたこともありますし、「苦しい」みたいになっていたこともありました。

しかし、あるときからだんだんと「自分はエゴの分離物語を作って見ていた」ということが「ほんとうにそうだ」ということが見えはじめました。

「自分はエゴの分離物語を作って見ていた」ということは、錯覚のような、白昼夢のようなそんな感じがしています。

だから「自分はエゴの分離物語を作って見ていた」ということについて、自分はなにもする必要がない。

「錯覚していた」と立ち止まり、気づきに気づくことだけが、錯覚していたときにできたことです。

このようなことが何度かあるうちに「相手は物語を見ている」という感覚が出てきました。

「相手は相手の物語を見ているのでは・・?」という感覚が出てきはじめた頃、

「そんなことを思うのは失礼だ。傲慢だ。一方的な決めつけだ。そんなこと思ってはならない」と、エゴが大変に大騒ぎしており、受け取るまでにかなり時間がかかっていた気もします。

そしてその「相手が物語を見ているという感覚」というのは、自分がそう見ているというよりも、「自分の意思」に関係なく見せられているといったほうが近いです。

というか、わたしも「物語」を信じています。(奇跡の物語です)

こうして書いてみると「人間だったら、誰もが物語や前提を持っていているもの」なのではないかそもそも、みたいな気もしてきます。

でもわたしは、「分離物語」は、もういいかな、という感じがしています。

なんでかというと、しんどいし限界だから、です。

わたしがもう「分離物語」を心地よいと思わなくなっているということを、ある意味、何年も、何十年も、確認し続けてきてきているという側面もあるのかもしれません。

そしてあるときから、「分離物語」のリアル感がなくなってきつつあるようだとも思います。

けれども、もし「分離物語を心地いいと思っている誰か」がいたとしても、それは不思議なことではありませんし、そういう誰かを変えたいとかも思いませんし、物語をもぎ取ってやりたいとかも思いません。

「今のままではダメだから、足りないから、もっと何かを獲得しよう。〇〇したらもっとよくなる。そうして、たくさんの成果物を得よう。今よりも未来の方が幸せに決まっている」という物語A。

「ゆるし、聖霊に尋ね、祈り、導いてもらい、奇跡を受け取る」という物語B。

どちらも幻想で「幻想に序列はない」ので、物語Aも物語Bも「聖霊から見れば同じ」ということになります。

だから、わたしが物語Bを信じているからといって「聖霊は特別にわたしを依怙贔屓してくれるのですよ」とか、ない。笑

けれども、物語Aは、わたしが、しんどいのです、もう。

「今のままではダメだ、足りない」と信仰することもしんどいですし、「今よりも未来の方がもっと幸せになるはず」的な考えは、幸せを一番に思うわたしにとっては無理ゲーというか、「ただ無理」です。

先ほどの話に戻ると。

それでわたしのほうで「相手が物語を見ているという認識」が薄かったとき、

「わたしは相手の物語に同意・共感・理解しなければならない」というようなマインドの動き(エゴの動き)が発動される場合というのがあったようで、

この場合にわたしは、怒り・イライラ、拒絶反応(もう嫌!という感じ)、身体反応、「苦しい感じ」が出てくる、ということがよくありました。

このように「相手が物語を語っている」という感覚があるとき「わたしは相手の物語に同意・共感・理解しなければならない」が自動的に反応を起こしてしまうとわたし自身がキツくなってしまいますが、

「相手が物語を語っている」「わたしが相手の物語に同意・共感・理解しようとする必要はない。同意・共感・理解しないでいようとする必要もない。いずれにせよ、わたしがなにかをしようとする必要がない」ということが意識的になってくると、

非常に自由、という感じがしてきます。

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