いま、「愛のメッセージ(聖霊の視座、恩寵)」を受け取るということ。
これは、本当に、とてもパワフルです。
セッションで、その確信を、たくさんいただいていた、今日この頃でした。
奇跡は複数の心を神の中でひとつにする。一なる子は神により創造されたすべてのものの総和であるから、奇跡は協力に依存している。したがって、奇跡が反映するのは、時間の法則ではなく永遠の法則である。(中央アート出版 奇跡講座 T-1.I.19)
「わたしだけが幸せになる」ということは、あり得ないことなんですよね。
聖霊により与えられた導きが「自分だけを守る。自分だけを幸せにする」ということが、ありえない。
たとえば、「具体的な個人的な願い」を、聖霊に捧げて、聖霊が使い直してくれるとき、「聖霊がわたしだけを(あるいはわたしたちだけを)幸せにする」ということがありえない、ということになります。
これを読んだとき、深い安心の感覚、本当にもう全面的に受け取っていいんだ・・・という感覚があったことを、いまも覚えています。
自分で問題をなんとかしようとしたり。解明しようとしたり。
「ダメな自分」を改善しようとしたり。
「この試練のような時期を『(苦しいけれども)耐え忍ぶ』ことで、きっとなんとかなるはず」
そう思うことが、悪いわけではありませんが、
いま、完全に心を開いて、信頼して、ゆだねる。
そうして、いま与えられている愛のメッセージを受け取りたいと願う。そして、受け取る。
今朝はなぜか、
完全なる愛だけが「治療法」
完全なる愛だけが「解決策」
完全なる愛だけが「成就の力」
疲れを一掃するのも、解放も癒しも、完全なる愛によるもの。
これは「知覚のシフト」「記憶のシフト」のこと・・・
そんな言葉が、心に強く、あります。
完全なる愛、というのは、この世界の愛(愛に似ているけれども愛ではないもの)ではありません。
愛というのは、この世界のものではない。
なぜかというと、神の愛とは永遠のもので、この世界のものは「一時的なもの」だからです。
それなのに「この世界の人間であるわたし、わたしたち」は、なぜか「愛」を求める、ということがあります。
「この世界の住民であり、人間である、わたし」が「この世界のものではない愛」や「この世界のものではない神」を求める、というのは、よくよく考えてみると、不思議なことです。
「この世界の住民であり、人間である、わたし」が「この世界のものではない愛」や「この世界のものではない神」を求めることが可能・あり得るのは、なぜなのでしょうか?
本当にわたしが「この世界の住民であり、人間である、わたし」であるならば、
愛を知らないはずです。
「では、愛に似たものを求めているということかな?」と問いかけてみる。
愛に似たもの・・・
たとえば、依存関係(共依存、相互依存)の関係性・・・
条件付けの愛(〇〇なら愛されるけど、〇〇なら愛されない)・・・
一方的に「相手の正しさ」を押し付けられて、強要されて、いやでも従わなければならないこと・・・
「相手」から「ダメな人、可哀想な人」と見られて、なんとかしようとされること・・・
相手に強要して自分の思い通りにさせること(これだと、いつも自分は恐れと焦りでいっぱいでいることになります)
ほかにも、さまざまな現れ方をしますが、このようなものを「愛だと誤解する」ということは、よくあることかもしれません。
もしかしたら、こういうことを、わたしは望んでいる(つまり苦しみから解放されていないということを、誰かや何かのせいではなく、わたしが望んでいた)に気づく、ということもあるかもしれません。
そして、けれども、それを認めたからこそ「いや、ほんとうは、こうだった」という本当の願いが出てくる、ということがあるかもしれません。
もう、自分自身に、この心に、本当の愛・本当の幸せを受け入れることを、許可したい・・・。
その思いを聖霊にささげるなら、それは必ず(しかもすぐに)与えられるので、
「すぐに与えられるらしい」と、心を開いて、待ち構えていたいというか、
受け取るポーズでいたいというか・・・。
「目を輝かせて、外の景色を眺めている子ども」の姿が、いま、心に浮かびました。