神にゆだねたらどんな嫌なことがあっても大丈夫という話をしているわけではないの話

「神の愛にすべてゆだねたら、一生独身でも大丈夫ってこと?(結婚したいのに!)」

「神の愛にすべてゆだねたら、夢も、おしゃれも、楽しみも、五感も、すべてどうでもよくなって、山の奥で草を食べながら一人で祈りながら生きても大丈夫になるってこと!?(おしゃれもグルメも旅行も大好きなのに!)」

このことについて「整理されたい、文章にしてみたい、聖霊に整理してほしい」という思いが出てきたので、文字にしてみたいと思います。

「神はこの世界を創造しなかった」

奇跡講座で、まず最初にわたしが心底ほっとしたのが「神はこの世界を創造しなかった」というものです。

この世界というのは物理世界、物理宇宙・・・です。

これは、わたしにとって、心底ほっとするものでした。

なぜなら、わたしは子供の頃、戦争や災害、残虐な事件、悲惨な出来事、ニュース、歴史・・・

一生苦痛を伴うかもしれないほどの大きな病気や怪我などを見て、

「神がこれを創造した、神がこれを許可しているってこと?」

「無条件の愛だからなんでもありだってこと?そんなの変だ」

と思い、長い間、鬱っぽくなっていたことさえあったからです。

もし「神は無条件の愛だからこそ、戦争でさえ許可なさった」のであれば、わたしは神も愛も信じられない、それどころか、神と対立してしまう、ということになります。これは、子どもだったわたしにとって一大事でした。

まわりの大人たちに聞いていた時期もありましたが、取り合ってもらえず、「頭がおかしい」と言われたこともあり、孤独で、さみしくて、とてもこわかったときもありました。

しかし、奇跡講座は「神はこの世界(物理世界)を創造しなかった」とはっきり言っています。

だからこそ、

・神はあの戦争を創造しなかった。

・神はあの大震災を創造しなかった。

・神はあの残酷な事件を創造しなかった。

・神は死別を創造しなかった。

・神は地獄を創造しなかった。

・神はカルマを創造しなかった。

・神は犠牲を創造しなかった。

ということになります。

これは、わたしにとって、まるで呼吸が深く蘇るほどの救いでした。

とはいえ、愛の奇跡の体験を受け取るなかで「この世界への愛着、身体への愛着、生きていたいという個別の生への愛着」、愛着というのか、なんというのか、そういう思いもはっきりと出てくるようになりました。

だって、素晴らしいんですもの!そして同時に「その素晴らしい経験、喜びの源泉・供給源が、神・聖霊ではなく、この世界にある」という混乱とも直面しました。

そして、この「神はこの世界を創造しなかった」という言葉は、

根深く、しつこいように思える「神がわたしに犠牲を強要してくる」という恐れの信念の訂正に不可欠であり、切っても切り離せないのではないか?という感じがしてくるようになりました。

「神がわたしに犠牲を強要してくる」というのは、たとえば、

・神はわたしに「学ばせるため」に厳しく苦しい試練を与える

とか。

・神はわたしに「あなたのためを思って」と厳しく裁かれるような状況を与える

とか。

・「心が幸せなんだから、何があっても(どんな”悲惨な状況”になっても)、ほら、大丈夫でしょう」と、わたしに災難を起こしてくる

などです。

これでは「目的:愛、手段:恐れ、ゴール:愛」ということになり、時空間の中では「よくあること、普通、常識」のように思えても、完全な愛・無条件の愛とはいえない、ということになります。

以前、わたしの中に、一定期間出てきていた「エゴの恐れの脅しのイメージ」として、

「【あなたはまだ、今のお家、快適な環境が心地がいいって言い張っているけど、本当はそうじゃないこと、その奇跡を、見にいこう。何もかもを手放して(=物理的なものを捨て去るという意味での手放す)、ホームレスになり、毎晩大地の上で過ごすほうが、あなたの学びのため、あなたの幸せのため。そうなることで、すべてを所有する、ということの本当の意味がわかる】・・・そういうことだぞ、いいのかそれで!?」(by エゴ)

というようなものが、ありました。

けれども「神は愛であり、神はこの世界を創造しなかった。物理宇宙も肉体も創造しなかった。愛以外を創造しなかった」とするならば。

目的が愛だという名目で、手段が恐れでありうる、ということを教えるわけがないのです。

手段が恐れというのは、

ひとりぼっちになったり、わたしが嫌だと言っていることを無理やり強要してきたり、わたしがもうこれは限界なんですと言っていることをやれといってきたり、

学びのためだからとわたしが苦しい思いをすることを試練だと言って一方的に与えてきたり、

などです。

たとえば、

「あなたのためをおもって。あなたを愛しているから。あなたに幸せになってほしい、ただそれだけだから。わたしも本当は心苦しいけれども、あなたをこうして躾けるしかないんだ、と体罰を行う」

というのは、

目的:愛(というか、一見愛っぽく見える)

手段:暴力(心苦しさ・恐れ・分離・欠乏)

ということになります。

「果たして、無条件の愛・完全なる慈愛が、学ばせるため・成長のためだからといって、わたしが苦痛を受け、苦しむことを喜ばれるだろうか?」

そんなの悪趣味すぎます。

「この世界ではときどき聞く話」だったとしても、無条件の愛、神聖性であるとは到底思えません。

「そんなの強要してくる存在」と信頼関係を築けるわけがありません。

そうではなく、愛によって、平和・喜びによって、ほんとうに心を開いて全的に信頼してゆだねてもいいのかもしれない、もっと頼りたいと、だんだん、神・聖霊との信頼関係が深まっていく。

聖霊が導いてくれるのは、こっち。

わたしが、まだ「この世界や身体に愛着を持って、好きなものや嫌いなものがあって、限界があって、夢があって・・・」というときは、それは確かにエゴ(個の意識内の話、一時的なもので永遠ではないもの)かもしれませんが、

そのすべてを聖霊に捧げることによって、聖霊は、そのすべてを、苦しみから解放されるため、ここから引き上げるため、そうして完全な幸せに優しく目覚めるために、使ってくれます、ということを、「学んで(手放し、実践、愛の奇跡の体験によって)」いきたい。そのプロセスが、奇跡のあゆみであり、聖霊だとおもっています。

目覚まし時計をガンガンかけて、「ちょっとあんた!遅刻するわよ!知らないわよ!もう起こさないからね!」と脅されながら叩き起こされるわけではなく、

悪夢を幸せな夢にかえながら、優しい目覚めへと、導いてくれる・・・そんな感じ。

関連:中央アート出版 奇跡講座 W-pI.14「神は意味のない世界を創造しなかった」

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