別に祈らなくてもいいけど祈る理由?

奇跡講座に出会った頃「今日、なにをしたいのかわからない。今日、何をすべきなのかわからない」と、毎日のように思う、ということがつづいたことがありました。

「何をしたらいいかわからない。何をしたいかわからない。何をすべきなのかわからない」

「ほんとうにわからない」と思っていて「わかりたい、教えてほしい」と思っていたので、毎日、一日中、祈り、尋ねるようになりました。

私が何をすることをお望みですか?
私がどこにいくことをお望みですか?
私が誰に何を言うことをお望みですか?

引用:中央アート出版 奇跡講座 W-pI.71.9:3-5

そして、祈り、導きを求め、従う、というその繰り返しの中で、あるときから、じわじわと気づきはじめたことがあります。

うまく書けるかどうかわかりませんが、言葉にしてみたいと思います。

最近、よく思うのは「すでに全員、完璧に導かれている」ということです。

赦したとしても、赦さなかったとしても、祈ったとしても祈らなかったとしても。

何をしていても、していなくても。

何かを理解していると思っていても、理解していないと思っていても。

尋ねても、尋ねなくても。

内観しても、しなくても。

すでに全員、完璧に導かれている。

本当に、一人ひとりから聖霊の働きが輝いている。

「そうかもしれない?ほんとうにそうかもしれない?」がしばらくの間、じわじわと続いている。

神さまは、必要としているもの、幸せのための最適な状況を完全にわかっていて、いつも与えてくれている。赦さなくても、祈らなくても。

赦したり、祈ったり、尋ねたりしなくても、本当にすべて与えられていて、完全に導かれているから、別に「しなければならない」ことではない。

でも、赦したり、祈り、尋ねることを繰り返していく中で「必要なものは与えられているし、幸せのための最善も与えられている」ということに、気づくようになる、ということなんですね。

一人ひとりが、神聖な輝き、神の働きをあらわしているけど、赦し、祈りによって、日々与えられ続けているギフトに気づけるようになる。認識できるようになる。

じわじわ「そうかもしれない?ほんとうにそうかもしれない?」が広がっていく。

心からありがとう、と思えるようなギフトは、ほんとうに与えられ続けていて、それに気づけるようになる、ということ。

この「心からありがとう、と思えるような」というのは、思わず、自然と、湧き出てくるような感謝で、

この感謝は、とてもきもちよくて、幸せなものだし、誰の中にもある自然なもの。

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