奇跡講座に出会ったばかりの頃「境界線について確認して」というガイダンスを何度も受け取り、そのガイダンスを疑う、という時期を過ごしていたときがありました。
「自分はいま、分離は起きていない、とか、そっち方面に向かおうとしているのに、境界線だなんて、逆方向に向かうことになるのでは?」「それは”正しく”学んでいないことになるのでは?」「混ぜるな危険なのでは?」などいろんな考えが湧き上がってきました。
それで、しばらくは「それは導きではないかもしれないし、それに従うのはなんか変な感じがする」という感じでしたが、定期的に境界線のガイダンスがありました。
同じ頃「奇跡講座 テキストの13章III節(救いに対する恐れ)」と「16章I節(真の共感)」を読むように、というメッセージもよく受け取り、読むとなんだか落ち着くので、何度も読んでいました。(いま思うと、この箇所には、一般的な定義での境界線の曖昧さや、HSP・エンパス・もともと直感系に特有の”あの疲弊する感じ”について、書かれてある気がします。)
そうこうしているうちに、バイロンケイティワークに出会い「一日一つずつワークする」というインスピレーションが与えられ、日課となり、今月で一年経ちます。
「一日一つずつワークする」といって、本当に一つの考えだけで終わるときもあるのですが、大抵は、いくつか問いかけてみていました。
「一日一つずつワークする」という日課は、導きというリズムに乗っているような心地よさがありました。
ワークを一年続けてみて、いま思うのは、
・「わたしの領域・あなたの領域・神の領域(バイロンケイティワーク)」が非常に助けになった。クリアな感じ。
・ワークの「わたしの領域・あなたの領域・神の領域」は、心理学でいう「バウンダリー(境界線)」や、奇跡講座でいう「レベルの混同」に関連している気がすると思った
・細やかで、当たり前に溶け込んでいて、見落としていたようなものまで繊細に感じるということ。たくさんの「平気なふり」に立ち止まるということ。いままで、”外”に対して敏感・繊細すぎたかもしれない(その分、”内”に対する敏感・繊細さが不在だったかもしれない)ということ
などです。
「わたしの領域・あなたの領域・神の領域」は、まるで「現在地を確認して、定位置に戻される」ような、そんな安堵がありました。「エネルギー調整」と呼びたくなるような感じです。
そして「自分が怒りやイライラや悲しみや落胆や緊張を感じているとき、それはただ単に、あなたの領域や神の領域を自分の領域だと勘違いして混乱していただけなのでは?」というような、シンプルな感じがしてきました。
そして、しばらく「現在地が確認され、定位置に戻されるような感じ」が繰り返される中で、「わたしの領域というものが存在していない感じ。神の領域しかないような感じ」がしてきました。
この「わたしの領域というものが存在していない感じ。神の領域しかないような感じ」は、深い安心、安堵、寛ぎと共にある感じでもありましたし、
「あなたの領域」へ対する”敬意”、それも”ほんとうの敬意”、”ほんとうの尊重”というものが、何度も訪れたような、垣間見たかのような、そんな感じもしています。これは、別の言い方をすれば「自分はいままで、もしかしたら、敬意や尊敬というものを、わかっているとおもっていたけど、わかっていなかったかもしれない」ということでもあります。
ワークの中で一番好きなのは、質問3の「その考えを信じるとき、あなたはどのように反応しますか?」です。
長い間「わたしは結構感じているほうだ、というか、いろいろ感じすぎて困っている」というようなことを思っていましたが、それは外に繊細になっていただけかもしれなくて、
外に繊細になっているとき、「わたしの領域」で感じることが雑になっていたのかもしれない、と思いました。
「わたしの領域」でそのまま感じる、ということが許される日々は、深い安心と共にありました。
そして、隅々まで感じながら「エゴの因果論」のようなものを眺めて体感していくような、そんな感じもしました。
奇跡講座に出会ってしばらくの間、原因不明な感じの罪悪感・恐れ、もじゃもじゃする感じが出てきていて、一日中助けを求めていたので、
境界線に関連する導き、バイロンケイティのワークなどは、そのときわたしが求めていた「数々の助け」に対して与えられたひとつのガイダンスだったのかもしれない、と、いまはそんな気がしています。