日記(執着−愛)の次の日の午前中、まだ友人宅で過ごしていると、宅配便が届いた。
友人がそれを開けるとハンバーグがたくさん入っていた。
お礼か、ギフトか、そんな感じで届いたものらしい。
友人は「これを〇〇さん(鯛を持ってきてくれた人)にお返ししよう」と言っていた。
〇〇さんは、甘いものはNGだけど、ハンバーグはOKらしい。
「タイミング」を肌で感じるかのようだった。
わたしの中に、うれしいような、感謝のような、感覚が広がる。
「うれしい」と言いたくなるときの感覚を感じていると、「感謝」を感じているときと近い感じがすることが、多い気がする。
そして、これは、「つながり」を感じているときとも近い気がする。
胸のあたりがじわっとあたたかさが滲んでいくような感じで、心地のよい重さを感じる。
何かが一点に凝縮されて、その点に深く沈み込んでいくような感じ。
なんだか「うれしい」「感謝」「つながり」というのが地続きのような感じがしてくる。
外と内の境界が溶けていく感じでもある。
「光のバウンダリー」のことで祈っているとき「滲む水色(マークロスコの作品みたいな感じのイメージ)」と「まゆふのこたつ」を受け取っていたことを思い出す。
「境界線が曖昧で混乱する感じ」ではなくて、心の奥にある「滲む水色」がどこまでも、どこまでも、のびていく感じ。内と外、あなたとわたし、神様とわたし、「心にうかんだイメージ(鯛の昆布締め)」と「なぜか鯛の昆布締めを作った未来」・・・
「1対1で、どっちがどう」というよりも、その境界が溶けてひとつに滲んでいくような感じは、どこか不思議で、平和で、心地のいい感じ。
たったひとつの源泉から、そのとき必要な何かが流れ続けている感じ。
感覚を切ってしまっているとき、それがわからなくなってしまうこともあったかもしれないけど、それは、そこから離れていることや、外れていることや、なくなってしまったことは、意味していない、ということを、忘れたくないと思う。
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