今日は「承認欲求を手放す」ということについて書いてみたいと思いました。
長い間「相手に合わせよう、嫌われないようにしよう」という思いがありました。
もうすこし正確にいうと、あるときまでは、自分のなかの「相手に合わせよう、嫌われないようにしよう、裁かれないようにしよう」という心の動きについてほとんど無意識的だったと思います。
「自分がそう思っている」ということ自体に、長い間気づかなかった、無意識だった・・ということでもあります。
そして、あるときから、「もしかしたら、相手に合わせよう、嫌われないようにしよう、怒られないようにしようと、必死かもしれない」と、気づきはじめたような感じだったと思います。
無意識だった頃は「自分は恐れていて、とても必死で、無理をしていて、緊張している」という自覚さえなかったかもしれません。
「相手に合わせよう、嫌われないようにしよう、裁かれないようにしよう」という心の防衛をはっきりとみていた場面として思い出すのは、一人で過ごしながら「のんびりとくつろいでいるはずの時間」でした。
「ひとりでのんびりとくつろいでいるはずの時間」なのに、わたしは「誰かの視線」を気にしながら、「嫌われないようにしよう、怒られないようにしよう」と緊張しているようだ、ということに気づいたのです。
その「誰かの視線」というのは、よーく見てみると、ただわたしの心の中だけに住んでいるようでした。
この「誰かの視線」を眺めていると、家族やパートナーなどの近しい人々のようでもあり、神様のようでもある、と思いました。似ているような、でもどこか違うような、そんな感じです。
「心にいる誰かの目」を気にしながら、「嫌われないようにしよう、怒られないようにしよう」と必死だったのです。
その「恐れから、大切な誰かの視線を気にして、必死な姿」をそのまま眺めていると、愛おしいような、いじらしいような、切ないような、なんともいえない感覚が滲み、それがだんだんと広がっていき、包み込まれるようでした。
相手に合わせよう、嫌われないようにしよう、裁かれないようにしよう。
なぜなら、見捨てられることがこわいから。生きていけなくなるから。
それはまるで「こわい」という思いを心の奥にしっかりと置いたまま「いつか見捨てられるかもしれない恐怖の空間」を生きようとしているかのようでした。
「もしかしたら見捨てられるかもしれない。そして生きていけなくなるかもしれない」という「かもしれない恐れ」を心の真ん中に置いたまま、「恐怖の空間」を生き延びるために「小さなわたし」は必死だったのです。
そして、その小さなわたしは、恐れと闘うために、ある戦略を思いついていたようなのです。
その戦略とは、
【相手に怒られたり、嫌われたり、裁かれたりしてから対応するのでは遅い。そのときにはもう見捨てられることになるかもしれないから。だから、自分の心の中に、その大切な人のコピー(視線)を住まわせて、相手が何も言わなくても、平穏無事に過ごしていているときでも、「いまこうしたら怒られるかもしれない」「どうしたら喜ぶかな」「どうしたらこの平和を守れるかな」といつでも先回りしてシミュレーションしておこう。】
というようなものでした。
表面的にあった「平和や調和を願う気持ち」の裏には、このような恐れがびっしりと刻まれていたのでした。
このように「見捨てられて、生きていけなくなること」を前提として生きようとすることは、どんなに大変なことだっただろう、と思うと、力みが抜けていくような、労いたくなるような、なんとも言えない気持ちになりました。
自分の中に内在化された視線を自分で作り、先回りして、自分をコントロールして、相手に好かれ、嫌われないようにしよう、そんなふうに相手をコントロールしなきゃ、と必死だったようなのです。
「いつか見捨てられるかもしれない恐怖の空間を生き延びるため」ですから、この努力は、何よりも大事なものだったのかもしれません。
この「いつか見捨てられるかもしれない、そして生きていけなくなるかもしれない恐怖の空間」や「内在化された像」は、心の中に作り出したシミュレーション空間のようなもので、
それはよく見てみると、外側の誰かや何かとは、関係がないもののようでした。
「長い間、こんなふうにして、生きようとしてきたのかもしれない。本当に必死で、無理をしてきたのかもしれない」と思ったとき、胸の奥がキュンと締め付けられるような感じがしました。これはもしかしたら「ときめくときのあの感じ」に似ているかもしれません。
そのハートの奥へと引き込まれるかのような感覚を感じながら「相手に合わせよう、嫌われないようにしよう、怒られないようにしよう」という小さなわたしをしばらく眺めていると、
必死に相手に合わせて、努力していれば、ここにいさせてもらえる。
ただここにいさせてほしい。
ただ、そのまま、ここにいさせてほしい。
という小さくて、でも、とても切実な願い、がきこえてきました。
その願いを聞いたとき、この祈りはすでに応えられていて、与えられている。いままではただ、わたしがわたしに許していなかっただけかもしれない、ただそれだけだったのかもしれない、と思いました。
心の中に影を作り出して、必死でコントロールしようとしてきたのはわたしであって、わたしはもうその必死の努力について限界を迎えている。
それに気づいたとき、同時に、何かがまるで、両手を広げて迎え入れようとしてくれているかのような感覚に包まれます。
そこでは「愛だけがふさわしい」という言葉が鳴り響いています。
「わたしがすること」は、そのとてつもない何かへの気づきの中に、ただ寛いでいることだけなのかもしれない、と思いました。
「承認欲求について書いてみたい」と思い、書きはじめたら、生存欲求のような話、そして、防衛の話になりました。
表面の浅いところでは承認欲求として現れていても、その深部では生存欲求(存在そのものの危機)があり、それはグラデーションのようでもあり、
どちらにも、離れることは決してない、絶対的なつながりの感覚を求める気持ちがあり、その奥には絶対的な一体性への渇望があり、そして、確信(真の安全)があり、根っこはひとつでした。
表面の浅いところを、パタパタと忙しなく動き回っていたとき、恐れや罪悪感がよく見えなかったり、モヤモヤしていたり、「承認欲求のようなものは自覚したけど、でも、どうしたらいいかわからないと思う」というようなこともあったかもしれません。
けれども、そのはじまりのところに目を向けたとき、小さなわたしは、ただ恐れて怯えていて「ただここにいさせてほしい。絶対的な”つながり”の感覚がほしい」と心から切実に願っていたのです。
そして、その心の奥にある場所は「外側の視線」も「恐怖の空間」も超えた、優しさと慈しみに満ちた空気だけが広がっています。
そのことを思うと、承認欲求であろうが、生存欲求であろうが、それを「手放す」ということは、
この心の奥にある”慈愛に満ちているそれ”に気づくこと、そしてそれと溶けていくままにゆだねることなのかもしれない、と思いました。
防衛しないことの中に、私の安全がある(奇跡講座 W-pI.153)
防衛しないことは強さである。それはあなたの中でキリストが認識されていることを証言する。(中略)防衛しない心が攻撃されることはありえない。それは、あまりにも大いなる強さを認識しているので、攻撃することは愚行となり、あたかも遊び疲れた子供があまりに眠くて自分が何をのぞんでいたのか思い出せないままに耽る、たわいのないゲームのようなものとなるからである。(奇跡講座 W-pI.153.6)
! 「防衛をしない」には、まず防衛に気づく必要があるし、その気づきの中で与えられる奇跡、癒し、救い・・本当の安全を自分に許可する必要がある。