「愚痴と自己開示の違い」で「心の向き」という言葉が出てきました。
心の向きが「外向き(形向き)」か「内向き(心向き)」か。
「外向きになってる」ということ自体はめずらしくないとおもいます。
ゆるしは、その外向きを内向きへと、180度転換(内向き)に戻してくれるものでもあります。
「内向き」というのは「エゴの願い」ではなくて「真の願い、心からの純粋な願い」へと向かいます。
「エゴの願い」というのが、たとえば「あの人が変わってほしい」だとすると、
「真の願い、心からの純粋な願い」というのは「あの人が変わってくれることで、本当に得たいと思っているもの」です。
本当に得たいと思っているものとは、本当の本当に求めているもの、魂が求めているもの、みたいな感じです。
(例)
「あの人に怒りを感じる。あの人に変わってほしい」
→「あの人に変わってもらうことで、本当に得たいと思っているものはなんだろう?」
→「自由」
すると、この自由「真の自由」というのは、神しか与えることができないもの、です。
自分が作り出すこともできないし、ほかの誰かや環境などによって、与えてもらうこともできません。
神しか与えることができないし、そして、神はすでに与えていて、もっといえば「わたし」とはその一部です。
神しか与えることができず、すでに与えられているものを願う、そして受け取る、ひとつに溶けていく、というのが祈りです。
ここでは、例として「自由」と書きました。
一番大事なのは、まず、ただ、問いかけてみることだと思います。
「この願いが叶うことによって、わたしが本当にほしいと思っているものはなんだろう?」
「わたしはこれが嫌だと思っている。じゃあ、本当に望んでいるのはなんだろう?」
と自分自身に興味関心をもつというか、自分自身を見つめるというか。
答えがすぐに浮かんでくる必要はなくて、
まず、ただ、問いかけてみることは、とてもパワフルなことだと思います。
場合によっては、このように問いかけなくても「心からの本当の願い」が叫びのようにして、すでに出てきているということもあるかもしれません。
「愚痴と自己開示」というところで書くと、
「心からの願い(祈り)」あるいは「わたしが本当の本当に望んでいるものはなんだろう?」という問いは、愚痴ではなく、自己開示の流れへと連れていってくれます。
それでも「愚痴を言いたくなる感じ」が出てくるということはあるかもしれません。
「心からの願い(祈り)」が太いと「愚痴を言いたい感じ」のときも、すみやかに自己開示の流れへと戻り、奇跡・癒しの機会として受け取れます。
「そのままを言葉にする、いまのそのままの思いをおく、表現する」というところで、セッションでは「一旦、人をしっかりと裁く」というときもあるのですが。
深い深い癒しを受け取らせていただいていて、みなさんの中の祈りとその答えを感じています。
言葉の奥にある、神聖な流れを、いつも感じています。
心から感謝です。