願望とケロケロケロッピー

ほしいもの、したいこと。

夢、欲求、欲望、願望などについて。

わたし自身の経験から、今日、要点を三つに絞るとするなら、

(1)投影と鏡

(2)恐れ・罪悪感・罪の意識の正視

(3)「人間の生々しいエネルギー」さえも一滴残らず聖なる目的へと捧げ尽くす

です。

わたしは以前(1)や(2)についてメインでブログを書いていたことがあります。

そのときは、なんとなく、「順番的に(1)(2)そして(3)」という感覚がありました。

わたし自身が、

・「恐れや罪悪感、悲しみや空虚感から逃げよう、見ないようにしよう、自分ひとりで抱え込もう」としていた時期

・「自分の弱さを自分ひとりで抱え込んだまま、自分ひとりでなんとかしようとしたまま、そのことにも気づかず、”どこか離れた場所にいる神様”に祈っていたことに気づいていない」時期

・・・が、長かったからかもしれません。長い間「わたしはわかってる」と思っていました。あるいは「わからないふり、知らんぷり」をしていたこともありました。

「欲求と恐れはセット」「執着や嫌悪は、反対方向へと向かう」ところがあります。

「執着や嫌悪(拒絶)は、反対方向へと向かう」というのは、たとえば「好きと思う人やものはなぜか離れていって、嫌だと思う人やものはなぜか繰り返し引き寄せられるかのような・・・」みたいな感じです。

このような話は鵜呑みにする必要はないのですが、自分を調べてみるなら「確かにそうである」ということが明らかにされます。

だからこそ「ほしい、したい、願う」というときや「好き、大好き」というようなときは「部分的なところだけ見る」のではなく、そのすべてを光へとさらしていくことで、心は解放され、癒され、自由・神聖性へと安心して開かれていきます。そして、兄弟(周りの人々)・・・特に「もしかしたら投影しているかもしれない誰か」は、開かずの扉の鍵を持っているようなところがあります。

そして(3)「すべてを一滴残らず聖なる目的へとお返しする」です。

ここから先は、わたしは「神」や「祈り」という言葉以外では、語ることができないようです。

「聖なる」とか「神」とか「祈り」という言葉以外でも、「同じ月(真実)を指す指(言葉・形)」はたくさんあるのかもしれません。

だから、もし、「ケロケロケロッピー」という「言葉」により、わたし自身に神聖性が喚起されるのであれば。

「ケロケロケロッピー、と心で想うことで、この心は神聖な光、永遠の充足感で満たされるんです」と、本気で、心に一点の曇りや澱み・嘘・誤魔化しがなく、本気で、そう言えるのであれば。

「ケロケロケロッピー・・・」と心に思うだけで、あの、なんといえばいいのかわからないそれ、すべての言葉が安っぽく感じられてしまうほどのそれが、わたしに喚起され、満たされるのであれば。

すべての人々、ありとあらゆるものの中に、ケロケロケロッピーが存在している。あなたもケロケロケロッピーの子、わたしもケロケロケロッピーの子、なんという奇跡!すべてケロケロケロッピーで満たされている・・・歓喜!と、わたしが本気でそう思っているのであれば。

「神」「聖霊」「祈り」ではなく「ケロケロケロッピー」でもよいのです。

あるいは、遠い昔、わたしが教えを乞い、大変にお世話になった師、わたし自身の内なるそれの鏡として現れた師が、「それ」を「ケロケロケロッピー」という言葉で指しながら、「それ」が分かち合われていたなら。

わたしは「神」「聖霊」「祈り」ではなく「ケロケロケロッピー」と言っていたかもしれません。

しかし、わたしの場合は、なぜなのか、それが「ケロケロケロッピーではなく、神だった」ということです。

「神」ではなく「宇宙」や「自然」や「大いなる存在」や「存在」や「法則性」や「美」と言ってもいいのかもしれません。けれども、やはり、なぜなのか「神」や「聖霊」だった、のです。

「聖霊」というのは、わたしの場合は、奇跡講座に出会って、はじめて「はっきりと向き合った言葉」の一つで、正直、最初は、抵抗感が出てきました。

「神とは何が違うのか?」とか、あとは、漠然とした「コミットしてしまうことへの恐れ、自分がなくなってしまうのではないかという恐れ」のようなものです。

コミットすることへの恐れも、自分がなくなってしまうことへの恐れも、人生をすべて捧げてしまうことへの恐れも、いま思えば、神の愛・完全なる幸せへの恐れ以外のなにものでもありませんでした。

実際「惨めなわたし」「病んでいるわたし」「狂ったわたし」「ひもじいわたし」という考えは死につつあり、天国へと引き上げられつつあります。

「神から分離した罪深いわたし、過去に取り返しのつかないことをやらかしてしまったわたしは、その罪を自分でなんとかするために甘んじて罰を受けるか、償いをするしかない」というコミットを手放し、

「神と神の子は決して離れることができない」という真実へのコミット、その意欲を見つ続けています。

しかし、それは、「恐ろしいことなのでは」という「あのときの予感」がまったく外れたものだった、ということでもあります。

願望(ほしいもの、したいこと、願い、欲望、夢、現世利益、実現)など、いろんな言葉があって、

「引き寄せの法則」や「潜在意識」や「現実創造」などの言葉もありますが、

わたしにとっては、なんかちょっと違う感じを心の中に感じていました・・・。でも否定したいかというと、そういうわけでもなくて・・・。

(1)投影と鏡

(2)恐れ・罪悪感・罪の意識の正視

(3)「人間の生々しいエネルギー」さえも一滴残らず聖なる目的へと捧げ尽くす

これは、わたし自身が示されてきた道のりのようなものでもあり、経験してきたものでもあり(そのあとで奇跡講座に出会いましたが、まさにそれは答え合わせのような感じでもあり)

これからも、自分自身の心に従っていきたい、と思っています。

「聖なる目的」と言わず、「ケロケロケロッピーなる目的」と呼んでもいいのかもしれませんが、

わたしにとっては「ケロケロケロッピーではなく、聖なる目的でなければならない」ようなのです。なぜなら、そう、だからです。

こういったものを「発信する、言葉にする」というのは、わたしにとって、何度も抵抗感や恐れや葛藤と直面するもの(=ゆるしを学ぶ、奇跡の機会)でもありました。

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