ある人に対して怒りがあります。「これは投影かもしれない」と思うこと自体については抵抗はないと思っていたのですが、この人にだけは「絶対に無理」と思ってしまいます。とにかく許せない、と思ってしまうのです。
内観も、鏡で見ることも難しい状態です。どう祈ればいいかもわからず、どうしたらいいかわかりません。このような状態がしばらく続いていて、苦しいし、疲れました。
このことについて、何かお話していただけないでしょうか。
というご質問をいただきました。(わたしの方で一部省略・要約しています)
本当にありがとうございます。
今日はこのことについて、書いてみたいと思います。
「(このような状態、誰かに対して怒り、許せない気持ちがしばらく続いていて)苦しいし、疲れた」と思うことは、実はとてつもなく大きな一歩なのでは、とおもいます。
怒り(あるいは恨みや憎しみ、文句、不満など)を持っていることは、わたしの心を苦しめることだ、と気づくことは、思ってた以上にものすごい大転換なのでは、と、わたしは思っています。
いただいたご質問に戻ります。
・ある人に対して怒りがある
・これは投影かもしれない(この人に見ているものは自分の中でゆるしていない何かかもしれない)と思うのは「もう無理」と思う
・とにかく「許せない」と思う
というようなとき・・・。
こういうときは、ありますよね。(わたしはありました)
けれども、このことを赦しの光に捧げたい、心が癒される機会、心を解放する機会として受け取りたい、ということなので、こうしてご質問くださっているのかな、とおもいました。
このようなときは、
・この自分の中の怒りの奥には、傷ついた思い(痛み、悲しみ)があるかもしれない
・そして、その奥には、愛の平和の思いがあるかもしれない
「かもしれない」。
けれども、いまの自分にはそれがまったく意味がわからないし、どうしていいかさっぱりわかりません。
自分で心を見ることもできなくなっているようです。
ですから、どうぞ助けてください。
本当は、わたしは、怒りを持ち続けて苦しむ代わりに、あなたのやさしい平和と幸せで心がいっぱいに満たされたいんです。でも、わたしには、それができません。どうしたらいいかもわかりません。
わたしはあなたに助けていただきたいです。
・・・と、たとえばこのように、そのままを聖霊にお願いをして、頼ることができます。
いまのそのままの正直な気持ちを、そのまま、差し出すだけです。
なので「この人に痛い目にあってほしい」と思っているなら、
聖霊、この人が痛い目にあってほしい、という思いがあります。
聖霊に助けてほしいでもなく、やさしい平和で幸せな心になりたいでもなく、神様におまかせしますでもなく、奇跡を受け取りたいでもなく、
この人に痛い目にあってほしい、と思っていました。
でも、この人に痛い目にあってほしい、というのが自分の本当の願いや本心ではないことは、うすうす気づきはじめています。
本当の願いと思い、自分の中にある愛を正直に認める勇気をください。助けてください。
・・・というときもあるかもしれません。
「わたし」にはできなくても、聖霊にはできます。
「わたし」にはわかっていないことも、聖霊はわかっています。
自分が投げ捨てたと思っている「あたたかでやわらかな心」を、聖霊はずっと大事に保存してくれています。
聖霊はいつも「わたし」から離れることなく一緒にいてくれます。
そして、聖霊に心からのお願いをすると、「何かがある」ということがあります。
この「何かがある」というのは、いろいろあるのですが、
「一見、この件とはまったくないような何か」だったり「自分が想定していたような展開ではない」だったりすることがよくあります。
たとえば、ですが、
「(以前から興味があったけど、ずっと理由をつけて後回しにしていた)〇〇をいよいよやってみようかしらと思う」とか。
「ある人に会いにいってみようかな」「あの場所にいってみようかな」という思いが浮かぶとか。
何があるかはまったく予測不可能ですが、こういう「心にふと思うこと」があるなら、それは、聖霊からの具体的なガイダンスかもしれません。
このように、祈り、頼って、尋ねて、受け取ったものに、従っていく、という練習(「恐れではなく愛を選ぶ」「自我ではなく聖霊を教師に選ぶ」という練習)は、心を、制限や苦しみから引き上げて、解放してくれます。
そして、それは、やさしく、あたたかく、幸せなものである、ということを、繰り返し、学んでいきます。