たとえば
【教師と生徒Aがいたとして「生徒Aが〇〇という大学に合格する」という「形の上でのゴール(目標)を共有する」】
という場合があるとします。
けれども、奇跡について学んでいく中で、このような「形の上でのゴール」は、厳密にいえば共有することができず、単一のものとはいえない、ということが明らかになってきます。
これは一体どういうことでしょうか。
「形の上でのゴール(目標)」
生徒A:目標は、わたしが〇〇大学に合格すること。
教師:目標は、生徒Aが〇〇大学に合格すること。
このように、表面的にはゴールが一致して見えるかもしれません。
けれども、よく調べてみると、
生徒Aの視点:わたし(わたしという個人)が〇〇という大学に合格したい。そして、自分の将来を確かなものにしたい(恐れや期待)
教師の視点:生徒A(自分以外の他者)をサポートすることで〇〇大学に合格させたい。そうすることによって自分の責任を果たしたり、実績を得たい、または満足感を得たい(無価値感や存在することへの罪悪感、虚しさなど)
などの思いがあった、ということがあります。
その場合、
生徒Aが本当に欲しいもの:「自分(生徒A)という個人の安心感・将来の保証」
教師が本当に欲しいもの:「自分(教師)という個人の責任の成就・実績・無価値感の穴埋め」
というように「形の目標」の下で、違うものを求めていた(エネルギーがバラバラで、違う方向を向いていた)ということがあります。
さらに、形のゴールは、条件が崩れた瞬間に簡単に「利害の対立」へと姿を変えることがあります。
たとえば、もし受験がうまくいかなかった(不合格だった)とき、形の目標しか持っていなかった二人の心はどうなるでしょうか。
生徒A:「教師の指導が悪かったのではないか/自分が無能で無価値なのではないか」(被害者・罪悪感など)
教師:「生徒Aの努力が足りなかったのではないか/自分の実績にならなかった」(失望・自己否定)
このようなことが考えらるかもしれません。
これは相当な心のプレッシャー、緊張になることがあるかもしれません。
もちろん「形のゴールしか共有していなかったけど、うまくいった」とか「素晴らしい経験だった」ということはあるでしょう。
けれども「それが100%例外なく、どんな状況でも確かなものといえない」というとき、やはり、恐れや焦り、緊張が拭えないかのようなことがあります。
けれども、もし、真に単一のゴール、内面的なゴール(内容)が共有されたなら。
そこに「あなたとわたし」という一見別々、バラバラに見える二人以上が、もし、たったひとつの目的のもとで、心をひとつに合わせたなら。
恐れ・自我の考えは相変わらず出てくるかもしれませんが、それを二人以上で「闇は現れては消えていく」という信頼のもと、光へと運んでいったなら。
(さらに、それが「何度も繰り返されるほど」、その意欲を、光をお互いがみつづけたなら・・・)
それは、どんなに、素晴らしい、パワフルなことでしょう…!
その心の状態で、さらにそれが二人以上いて、対話がされていたなら…
もしかしたら「恐れや期待の状態ではなく、本来の心の状態で受験勉強している/サポートしている」となるかもしれません。
同じ受験勉強をするにしても、恐れや無価値感から勉強したり(サポートしたり)するよりも、最善・最大限が発揮されそう、というのは、難しく考えなくてもなんとなく想像されます。
「不可能に思えていたことさえ、可能になった」ということは「奇跡」という言葉を使わなくても、もしかしたら、すでに、体験したことがある(それを思い出しはじめている)という方もいらっしゃるのかもしれない、とよく思います。
そして、その思い出しはじめている「ハートの奥で響く何か」によって、いま、こうしてご縁をいただいているのかもしれない、と思います。