「本当の神(聖霊、導き)は、 100%の愛と容認であり、決して裁かず、罪悪感を持たせない」
この補足について、書いてみたいと思います。
本当の神(聖霊、導き)は、 100%の愛と容認であり、決して裁かず、罪悪感を持たせない
というのは、まさにその通りなのですが、
心が開かれていく中で、隠し持っていた罪悪感が意識に現れる
というのは、よくあることかもしれません。
「罪悪感を直視するのが恐ろしすぎるので、否認して抑圧して投影する」と言われています。
「罪」が外にあると思うことで、自分はそれを感じなくてすむ、というのは自我の防衛策です。
けれども、その「自我の作戦」によって、本当に、自分の中から「(本当はないのに、あると信じ込んでいる)罪」がなくなるわけではありません。
この場合、解決不可能に思える問題を作ったり、「投影ドラマ(人、状況、出来事)」を作ったり、苦しくなったりすることで、立ち止まることがあります。
「自我の罪悪感の不在」と「聖霊による罪悪感の取り消し」
(1)自我の抑圧・防衛による「罪悪感の不在」は、心の奥底にある罪悪感が痛すぎるため、
麻痺させたり、解離させたり、平気なフリ(開き直り)をしたり、他人に罪があると見る(投影する)ことで
「自分は何も悪くない」と思おうと努力している状態です。
表面上、自覚としては罪悪感を感じていないように思えることがありますが、内側では巨大な罪悪感が渦巻いていて、それを隠すために、必死で他者を見下そうとしたり、無意識に誰かを傷つけるような防衛をしてしまったりすることがあります。
そして、それは冷酷さからではなく、本人の恐れがあまりにも強すぎるがゆえの防御策です。
「自分は何も悪くない」というのは、「その通り」なのですが、
けれども「あなたも悪くない」「あなたも悪くない」「あれもこれもそれも悪くない」のです。
これを、自分で納得しようとするのではなく、聖霊にすべてお返ししていきます。
(2)聖霊による罪悪感の取り消し
ある時期急に自分の中に罪悪感が噴き出してきたり、誰かの話を聞いたり・聞いてもらったりしているときに罪悪感が刺激されたり、という体験を思い出す、ということがあります。
これは「その人が罪悪感を刺激してきた」わけではなく、「隠されていた罪悪感が光のもとに上がってきた」状態です。
「隠されていた罪悪感、闇」は、光のもとに晒されて、はじめて「聖霊の取り消し」を受け取れます。
ほとんどの場合「罪悪感」は暗闇の底に隠されているため、手放すことすらできません。
「愛を選ぶ」ということは、その前に「愛ではないものを選んでいた」があるということです。
この状態のとき、無意識に誰かを攻撃したり、「自分は正しい」と主張して「罪悪感を感じない人」になろうとすることがあります。
けれども「罪悪感を感じない人になろうとする練習」をしているわけではありません。
罪悪感を感じない人になろうと努力するのではなく、「罪悪感は感じなくていい」と言い聞かせることでもありません。
ただ、浮上してきた罪悪感を包み隠さず光のもとに晒し、静かに立ち止まる。
「自分で罪悪感を消そう、自分で手放そう」とする代わりに「恐れ、価値判断、裁きを手放したい」と願うことはできます。
わたしの場合、「まるで無意識の根底に横たわっているような罪悪感」に直面したとき「これは自分の力や誰かの力で、なんとかすることは不可能だ」と思い、大いなる存在・聖なる存在に助けを求めるようになりました。
どんな状況でも、聖なる存在に「助けてほしいです」と願うことはできます。
そして、それは、たしかに、必ず、答えられます。
そのとき、自分でどうにかしようと躍起にならなくても、聖霊の愛(光の中)でそれは静かに取り消され、ただ本来の安らぎへと還っていくのだと思います。