愛か?恐れか?=愛か?コントロールか?

超自我は、

・「べき、べきではない」

・「なければならない、ならない」

・「はず、はずはない」

・ルール

・正しいか間違っているか

・義務、常識、当然

・禁止、抑圧、命令

・「完璧でなければならない」「理想的であるべきだ」(理想の追求)

・「自分が悪い」「なんてダメなんだ」「申し訳ない」(自己批判、罪悪感)

のような形をとることがよくあります。

このような超自我の批判は、自分を罰するだけでなく、外に投影されたり、「共有しよう」とされたりします。

「批判を批判だと感じられない」という場合や、外に投影されたり「共有」されたりする中で「罪悪感や自己批判の自覚がない」ということは、もしかしたら、意外によくあることなのかもしれません。

超自我が提示する「厳しさ」や「正しいとされるルール」は、「自我が作り出した恐ろしい裁きの神(偽の神)」のようでもありますが、いつの間にかそのコントロールが「まるで当然の正義のよう、まるで愛のよう」に錯覚してしまうこともあります。

たとえば大切な人との関係性の中で「愛してくれているなら、〇〇してくれるはずだ」「調和のためには、〇〇すべきではない(そうでしょう?)」という期待は、まるで正当なもののように思え、そんなふうにしていつのまにか「愛の代わり」のようになってしまうことがあります。

「本当の神(聖霊)」は、無条件に与えられ続けている愛であり、慈しみであり、受容ですが、

「まるで愛のような超自我のコントロール、正しさ」は、厳しく、批判的で、条件付きの愛です。

さらに、気づかれないままの超自我は、「とても大切な人、大好きな人」にほど、これを投影してしまう、ということがとてもよくあるようなのです。

「ルール」や「禁止」それ自体が「心に毒」というようなことは、まったくありません。

「べき、しなければならない、はず」というワードそのものがそのまま「超自我のしるしである」というわけでもありません。

けれども、自分自身の心と向き合うとき「ルールや正しい間違いが過剰に気になる傾向」や「べき、しなければならない、はずという口癖、あるいは、脳内口癖」に立ち止まることは、心を解放する大きな手がかりになることもあります。

けれども、自我が「わたしはこれこれだ」といい、超自我が「では、ああしなさい、こうしなさい」といい、

超自我はまるで神様のようで、厳しく、批判的で、よりよくするために罰を与える、というプログラムに心を与え続けていると、

心は、その奥にある源泉と「まるでつながりが断たれているかのよう」になってしまいます。

本当は、その源泉(神)とのつながりは一度もたたれたことがなく、今も完全にひとつであるにもかかわらず、です。(超自我のノイズ(~すべき、罪悪感、裁き)が大音量で鳴り響いているため「すでにここにある源泉の愛(神の声)」が聞こえなくなっている、覆い隠されているだけです)。

すると、心の中に「ほんとうのつながりがほしい」「満たされたい」「自由になりたい」「生きている実感がほしい」「”我が家”へ帰りたい」というような”聖なる願い”がまるで魂の叫びのようにして生じることがあります。

それだけではなく、もっと「具体的で現実的な(現実的というのは、現時点での自分が想像できる範囲のイメージ)」として願いが現れることも、よくあることです。

たとえば、

・結婚したい、運命の人と出会いたい、両思いになりたい

・痩せたい、もっと綺麗になりたい

・仕事で評価されたい、成功したい、転職したい

・お金がほしい

・新しいお家に住みたい

・旅行に行きたい

・別れたい、離れたい、距離を置きたい

・誇りを感じたい

・大切な人と愛を分かち合いたい

など、どんなことでもありえます。

この「〇〇になりたい」という願いを「自分で」持つとき、「過去からの古いパターン(自我ー超自我システム)」へと明け渡すことがあるのです。

なぜなら、超自我とは、自我の「わたしはこれこれである」に対して「よりよくしよう、ますますよくなろう(理想、完璧を目指す)」というシステムでもあるからです。

このシステムは、一生懸命に「自分、または他者のダメなところ」を探し、そのダメなところを改善しよう、あるいは排除しようとします。

「今のままではダメなので、もっとよくなろう」といいます。

「〇〇しよう、〇〇しないようにしよう」とたくさんの計画を立てます。

何度も思い出しますが、これが悪いわけではありません。

しかし、苦しくなったり、疲れたり、ストレスや恐れや敵対心が膨らんだりすることがあり、ほとんどの場合、投影されます。

けれども、この「過酷で厳しいマラソン」は、周囲から褒められたり、評価されたりすることがあり、それを「これでいいサイン」のように感じることがあります。

この「超自我」は、「気づきにくいもの」であり、手放されるタイミングでは、抵抗が生じるところでもあるかもしれません。

「だから、祈り(ゆるす)」、と思ったことが何度もあります。

それがどんな願いであったとしても、そのものを消そうとしたり「願うこと=自我」と責めたりする必要はなく、

「その願いを超自我(改善システム)ではなく、聖霊(愛)に手渡す」という練習をしていくことができます。

最初は「厳しくて正しい超自我の声」「気づいてもいなかった超自我のノイズ(~すべき、罪悪感、裁き)」に気づいていなくても、赦し、祈りの中で、あまりにも優しく、気づかされていきます。

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