前のブログに「ダメな自分が暴かれてしまう恐れ」があったという話を書きました。
この感覚を言語化できたのは大人になってからでしたが、子どもの頃から「この漠然とした感覚(恐れ、罪悪感)」があったように思います。
それで、あるときまでは「ダメな自分」を直そう(治そう)としていたことがありました。
わたしが心やスピリチュアリティに関心を持ち続けた理由のひとつに、このことはあったように思います。
「ダメな自分」を直そう、何かわたしにできることがあるならしたい。治療者の方を信頼して治療方針に従うことができることなら、そうしたい。そう思っていました。(いま思えば、ここでは、当時わたしが思っていなかったようなことが起きていたかもしれない、と思っています)
それであるとき、この「ダメな自分」というのは、そもそも一体何を指しているんだ?と思って、具体的に見ていったことがありました。
その「ダメだと思っている自分」を具体的に見ていくと、すぐに「聖霊の見方、メッセージ(※)」が浮かぶようになってきたのです。
※ここでいう「聖霊の見方」というのは、奇跡講座の文脈で語られている「自我の恐れの見方ではない見方」のことで、誰の中にもある見方のことです。
具体例をここで書こうとおもったのですが、いま、全然思い出せないので、また、思い出したら書くかもしれません。
この「聖霊の見方、メッセージ」は「バイロンケイティワークの反転のところ」と似ている、同じである気がしています。
とにかく「これはこうだ、絶対にこうに決まっている。こんなところがダメだ」と決めつけて、すでに判決をくだし終わったようなところについて「果たしてほんとうにそうだろうか・・・?」という隙間が生まれていく、みたいな感じです。
嬉しい意味で「いままでのわたしの決めつけ、わたしの見方は、偏っていて、間違っていた」と思える感じです。
それで「ダメな自分が暴かれる恐れ」の中の「ダメな自分」というのが、だんだんと迫力というか、リアリティというかを失っていきました。
だからといって「わたしは完璧な神の子だと気づいた感」があったわけではありません。
その代わりに「自分が消えてなくなってしまう恐れ」が出てきたことを、覚えています。
長い間「ダメな自分」を自分だと思ってきました。しかも「ダメな自分だから、よくならなくっちゃ。何かをしなくっちゃ」と思って行動にも移してきたかもしれません。
そうなると、その土台であった「ダメな自分」が「もしかしたら、存在しなかったかもしれない」というのは、「自分が消えてなくなってしまう恐れ」「自分が消えてなくなってしまう恐れ」のように感じられたのです。
こうやって、文字にしてみると、祝福でしかないな、と思いますが、そのときはこわかったのです。
「(ダメな)自分が消えてなくなってしまう恐れ」のようなものがあり、だからといって「自分はダメ人間などではなく、愛の存在だった」と気づくわけでもなく、しばらく、その「恐れ」の中にいました。
そして、自我の働きを観察し、ゆるす、ということを学ぶだけの日々、みたいな感じでした。
自我の働き(わたしが自分を自我だと思って考えているとき)は、
ほんとうに恐れているということ、その恐れからほんとうに偏った見方(恐れの見方)しかできなくなってしまっているということ、
さらに、その恐れを信じ込んで、なんとかしなきゃと闘おうとして、こんなにも無理をしてきたのだということをみました。
不思議なのですが「こんなにも恐れていた。その恐れから見方が偏っていた」ということを見ていくうちに、ただただ優しくありたい、聖霊にゆだねたい、と願うようになりました。
「自我」というと、自我は「自我は邪悪なこと。劣ったこと。ダメなこと。なんとかしないといけないこと」みたいな感じで判断しているようなのですが、
聖霊の目には「ただただ、静けさと優しさと慈しみだけが必要」と見えるようだ、と思いました。
(つづく)