「見抜く」を「勘違い」してた話

以前わたしは、理由がよくわからない恐れのようなものだったり、罪悪感のようなものだったりを感じていたことがありました。

あるとき、その恐れのひとつが「ダメな自分が暴かれてしまう恐れ」だと、しっくりきたことがありました。

「なんだかよくわからない恐れ」に言葉が与えられたのは、ちょっと恐れがやわらぐような感じがしたのを覚えています。

しかし、そのあとも、定期的に「ダメな自分=真実」という感覚が浮かんできていました。

「ダメな自分」は真実であって、そのままではダメなのだから、今のままではダメなのだから、なんとかしなきゃ、という感じです。

「ほんとうの自分は、とんでもないダメな自分なのではないか?」という恐れは、長い間、波のように定期的に襲ってきていました。

このとき感じていた感覚を、もうちょっと正確にいうと、単に「ダメな自分(すでにみんなにバレちゃってるかもしれないレベルのダメな自分)」というよりも、もっと深刻で、もっとおどろおどろしいような感じ、罪悪感のようなものです。

そして、それに飲み込まれるかのような感じがありました。

これを友人に話すと、ありがたいことに、たいてい笑われていました。笑

しかし、「わたしが」あまりにもリアルに信じていたからなのか、そのときはちょっと楽になっても、

「ほんとうの自分はおどろおどろしいのである」みたいな、何だか得体のしれない、いやな感じに戻っていました。

だからなのか、なんなのか、世間で「見抜く」という言葉を見かけると、

「ダメな自分が見抜かれちゃうのでは?」みたいな感じがして、怯えていていたことがありました。

「見抜く」という言葉を見かけたとき、わたしはそこに、

・嘘や誤魔化し、邪悪さを見破る力

・みんながわかってない隠された裏のカラクリ(現実の仕組み)を知ってる力

・相手の隠された意図(裏)や人間の醜さを暴く力

・相手の個人としての「この人はこういう人物だ」を判定できる力

↑このような意味づけをしていたようなのでした。

この意味づけ内での「見抜く」は、「上空から見渡す」という言葉にしてしまえば、まるで聖霊のよう、みたいな感じもしてきますが(聖霊も鳩の目、空から見渡す、とたとえられることもあります)

なんというか、裁きやコントロールな感じがすることがあります。

「高いところにある席」から「低いところにある席のもの」が裁かれてる感じ。監視されてる感じ。

そして、いま、おもうこと、感じていることをしっくりくる言葉にしてみるなら。

「見抜く」とか「本質を見抜く」とか「見破る」というのは、

「表」も「裏」も「そのままみて」、神の子としての光輝きを本質だと見抜いていることが、

「本質を見抜く」ということなのではないか、ということです。

ここでは「あなたとわたし」という境目がよくわからなくなっていくことがある。

その麗しい光にゆだねて、光を受け入れる。

このことに関する体験は、以下のような感じで、何度も何度も、受け取っていました。

文字にしてみたいと思う。

(1)「表(形=言葉や行動や姿など五感で察知できる領域)」が見える。

(2)そこで自分の中に「裏(恐れ)」を感じることがある。それを「無視しよう」「感じないようにしよう」「こんなふうに感じる自分はおかしい」みたいなことはやめる(というか気づくというか)

(3)このスペースに感じる「裏(恐れ)」を直接にみる。(飾り付けをしないというのか気づくというのか)

(4)するとみえてくる「光り輝き」が本質(=本質を見抜く)

「(2)や(3)を見ないようにして”光(表面)”だけ見る」ということと、

「するとみえてくる光り輝きという本質を見抜く」ということの違いとは何か。

これはたとえば・・・

相手の「裏」は無視をして、相手の「表面」だけ見て、「いい人、すごい人」と「ほめ」てる感じ。

一見「光」を見て「賛美」しているようで、でも、正直に見てみるとそれは「形を見て、ジャッジメント、評価を下していた」ようなこともあるかもしれない。

いまは、この「裏」こそ「器」なのでは?と思う。

※「主よ、わたしを平和の器とならせてください(聖フランシスコの平和の祈り)」を思い出す。

このとき「外の誰かや何かの裏をわたしが見る、見抜いてやる、お見通しだっ」と思うと、途端に「変に深読みして疑って勘繰る方向性」になってしまうかもしれませんが、そうじゃないです。

そして、自分の中の「裏」を見てても、ただただ「闇」という感じがして「これ以上はひとりでは限界」に思えることもたくさんある。

けれども、その器に触れることで「こんなにも隅々まで、こんなにも愛されているのか」と驚くというか、なんというか。

あまりにも神聖な、この世のものではないほど美しい「器」、真実の存在感。

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