「ダメな自分が暴かれる恐れ」の中の「ダメな自分」の部分がいつの間にかリアリティを失い、
「〇〇が暴かれる恐れ」だけが残った、という日々を過ごしていました。
「〇〇が暴かれる恐れ」・・・なんだこれは?という感じですが、
何度も何度も「すべての兄弟姉妹とひとつの神の子であること、ただそのままで愛し愛される存在であることを暴かれてしまう、そしてそれがこわいとおもってるんだよ」という考えが出てきて、
さらに、こわい、と思っていたことがありました。
たしかに、本当に恐れていた、嫌がっていたのは、神の愛だと、何度も、思いました。
けれども、ただただ「こわいし、嫌だ」というわけでもありませんでした。
あなたの使命はきわめて単純なものである。
あなたには、自分が自我ではないということを実証するために生きることが求められている。
(中央アート出版 奇跡講座 T-4.VI.6:2-3)
奇跡講座にこのように書いてある箇所があるのですが、
ここがとても心に響いていて「自分が自我ではないという生き方、在り方を本当に受け入れたい」とも思いました。
・自我にしがみついていたいかのような心の働き(恐れ、罪悪感)
・「あなたには、自分が自我ではないということを実証するために生きること」に「はい」と言いたい気持ち
その両方がある時期を過ごす中で、赦しを学び、祈り続けていました。
このことから、赦しや祈りとは、自分の中のふたつの引き裂かれた願い(例:自我にしがみついていたい気持ち、自分が自我ではないということをわかりたいみたいな気持ち)の中で、
真の願望(自分が自我ではないということをわかりたい、一体性、心の平和)を、自分自身で認め、見つめ、思い出し、(自力でなんとかしようとせず)ゆだねていくことだと何度も思いました。
「自我にしがみついていたい」という思いを持ったまま(心の奥で無意識に隠し持ったまま)、日々を過ごしていても、その望み通りに物事を見てしまう、感覚してしまう、ということがあります。
けれども「自我にしがみついていたいのではなくて、わたしは本当は、自分が自我ではないということを実証するために生きたい(それがどういうことなのか、それが一体なんなのかわからないけど、本当にそう思う。そのためのすべてを知っている聖霊を信頼して導いてもらいたい)」という思いが自分の中に確かにあることを見つめ続ける中で、
具体的な答え(具体的な導き)であっても、それは本当に与えられている、ということを、受け入れられるようになるようなのです。
この日々の繰り返しによって、聖霊への信頼、神への信頼、というものが、少しずつ、少しずつ、育まれていくのかもしれません。
少しずつ、少しずつ、というのは、この「時間と空間の世界」において、とても心強い、頼もしいもの、そして、幸せ(平和)なものなのではないかと感じています。