先日、実家に帰ると両親から「明太子スパゲティを食べたい。作ってほしい」と頼まれ、作ることになった。
明太子スパゲティを作りながら「いつも作る量の倍以上あるけど大丈夫かな」というような考えが浮かび、「美味しく作りたいな、美味しいって言ってほしいな」とか「もうこんな時間だから、早くしなきゃ」などの「思考」が湧き上がってきていたので、ぜんぶ出てくるままにまかせていた。
できあがり、父だけ別の部屋で食べることになり、わたしたちは食卓で食べた。
わたしたちが食べ終わった頃、父が食卓へやってきて「美味しかったよ」と言ったので、「よかった」と答えた。
それから洗い片付けをして、そろそろ帰ろうかなという頃、父が「ほとんど残されたままの明太子スパゲティ」を持ってきて「ごめん、食べれなかった」と言った。
それを聞いた母はわたしに「ムカツク!でしょ?」と言っていた。笑
というのも、父は以前から「こういうところ」があって、母はそれに「ムカツク!」と言っていた。
「こういうところ」というのは、父は食事の前は「お腹が減った」とか「今日のごはんなに?まだ?」と言うのだけど、母が食事を作り「できたよ〜」と呼ぶと、「食べられない」というようなことで、よくあることだった。
父の言い分としては、「急に食欲がなくなったから」とか「胃の調子が悪くなったから」とか、いろいろあるようだった。
母の言い分としては、「父は、わたし(母)が作った食事が嫌だったに決まってる。わたし(母)が作った食事を見て、美味しくなさそうだな、好みじゃないな、こんなもの食べたくないなと思って、食欲がないって嘘をついているに決まってる。食事を作る前に食欲がないって言えば作らなかったし、捨てずにすんだのに、もったいない。ゆえに、ムカツク」ということのようだった。
「作った料理を父に残されたわたし」は、母から「ムカツク!でしょ?」と言われたけど、そのときは、わたしの中には怒りは発生しておらず、同意は不可能だった。
けれども、今回は「なんか作り方が悪かったかな?でも、ふつうに美味しかったけどな?わたしの味覚、嗅覚が鈍ってて、なんか変だったのかな?(でも美味しかったけどな?)」という考え、そして、極端に言えば、自責、罪悪感、責任感とも言えるようなものがスペースの中に出てきていたので、それをそのまま出てくるがままにしていた。
それを眺めるうちに、これはまさに「わたしがやった」だな、と思った。
「わたしがこれをやった」というのは、奇跡講座やアドヴァイタの文脈(=スピリチュアルな目覚め、覚醒、本当のわたしとの一致などと呼べる文脈)において「行為者感覚、作者錯覚(そしてそれに双子のようについてまわる罪悪感、責任感)」などと呼ばれている心の働きのこと。
「わたしが、明太子スパゲティを作った、わたしがこれをした、わたしがこれを行った」
「わたしはこの行いの総責任者であり、それがうまく行われるようにちゃんとしなければならない」
「このわたしがこれを為した・・・!」
そして「自分自身と向き合う」とか「”本当のわたし”に戻る」というのは、そもそもじゃあこの「わたし」とか「自分」とかって一体なんなのか、ということであって、
祈りとは、この「わたし」をすべて”神”にお返ししていくこと、明け渡していくこと、そして、溶け込んでいくままにゆだねること。
「わたしがこれをしたのだ」というアイディアを信じきっているとき、自動的にその行為の結果の責任者は「わたし」、ものごとの作者も「わたし」ということになる。
その「わたしの行い(料理)」や「わたしの作品(明太子スパゲティ)」に、誰かが何かを言ったりしたり(言わなかったりしなかったり)するとき、
その誰かの言動、反応さえ「わたしの責任」のような錯覚が起こり、
ひどいときには「わたしが何か悪いこと、間違ったことを行ったのかもしれない」と自責、罪悪感、後悔、反省を感じることになる。
けれども「本格的な回帰がはじまる前」までは、こういったことはとくに認められることもなく、言語化されることももちろんなく、「別に平気」であって、「ふつう」であって、「ま、いっか」であって、「わたしは大丈夫」だったり、誰かと一緒に「ね!ムカツク!」となっていたりした。
「”本当のわたし”の”影であるわたし”が、何かをしているんです」というとき。
そうして「”本当のわたし”と”影のわたし”を混同する」とき。
「他者の言動」の責任がまるで自分にあるように錯覚し、無意識のうちにある自責、反省、罪悪感、さらには罰の予期、罰の要求にまで広がる。裁かれるのがこわくなるし、罰せられるのがこわくなるかのような錯覚が起きる。
その日の天気があり、そのときのわたしの体調、そのときのあなたの体調、その前後の経験、レシピ、材料があり、そのとき起こるべきことが起きている。
この出来事のあと、なぜか、確かに「すでに書かれたシナリオ通りに展開し、その映画を見ているかのようだ」と思った。
目次