お話をきく機会をたくさんいただく中で、わたしの中で、はっきりしてきたようなことがある。
それは、相手が「そのままの闇」のときほど、光がクリアに見えるということ。
光というのは、気づきということもできるし、美しいさということもできるし、インスピレーションということもできる。
具体的に言葉にすると、それは一人ひとり、さまざまということもできるのかもしれないけど、たったひとつの核心部分に響き、揺さぶられる感じがする。
このときは、わたし自身、そのインスピレーションにより深く癒されるような感覚になる。
そして、その相手を見て感じたことをそのまま伝えることで、共に驚きや喜びや気づきを分かち合える瞬間は、わたしにとってこれ以上ないほど至福なひとときで、これがないと生きていけない、そのためだけにこの世界にいるのではないか、と言いたくなるほど。
「整えられた光(のようなもの)」をきくとき、あるときは身体が痛く、あるときはつまらなく、あるときは「ありのままでは愛されないという怯え」を感じていた。
「わたしはありのままでは愛されない」と怯えて、よく見せよう、明るく元気に見せよう、愛のように振る舞おう、理想の自分でありたい、と振る舞ってきたのは、わたし。
こんなにも怯えていたのかとおもう。
「この怯えこそ、本当のわたし」と信じ込んで、それを見ないようにと張り詰めたり、逃げようとしたり、隠そうとしたり、してきたように思う。
長い間、そんなふうにして「いまのままの自分じゃない自分にならないと危険だ」と思い込んで生きてきていると、そうしていることにも気がつかないし、よくわからないし、癖のようにもなっていてもおかしくはないかもしれない。
そして「ありのまま」とか「自然」という言葉に心は惹かれるけど「そんなのわからない」と不満やイライラのような感じが出てきていたこともある。
「わからない」とわくわくするのではなくて、「わからない」と壁を作る感じ。
それは、もしかしたら「ありのままのわたしでは危険だ」と守ろうとしていた瞬間だったのかもしれないと、これを書きながら思う。
「ありのままのわたし」とは無防備ということ。
盾も矛もない、丸腰状態、戦闘能力ゼロだということ。
長い間「それでは困る」と思ってきて、「それでは困る」の下にはさまざまなジンクスがあったように思う。
自分を守るために、生き延びるために「理想の自分という像」を作って、その像になりきれば安全だと思ってきたのかもしれない。
「いい子にしていれば、元気で明るく楽しそうに見せていれば、安全だ」と信じ込んで。それが「いまのそのまま」を否定することになったとしても、そうした方がいいに決まってると信じて。
こんなふうに書いていると、あのつまらなさというのは、いまのそのままを求めていた、そこにあるインスピレーションからの光を求めていた、ということでもあったのかもしれない。
「自分で整えた光」ではなく、源泉から流れ出てくるなにか。
ということは、この心のどこかで、たしかにそれを知っていた、ということ。
「いまのそのまま」に寛ぐとき、日々、影が浮かんでくる。
昨日ぴかぴかに磨いたつもりでも、次の日には埃がついている鏡のように。
「いまここに埃があるんです」と、それがそのときのわたしの内的真実なら、その「そのまま」をただ認めていくプロセスことが、すでにとてつもないインスピレーションを与えている、と気づかされたことを、もう一度思い出す。
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