Q & A:「マネしているのではないかというような後ろめたさ」

Q & A:「パクリなのではマネなのでは、というもやもや」を読ませていただきました。

私は〇〇(※職業です)をしています。そのことで自分が誰かのマネをしているのではないか?パクリなのではないか?と過剰に気になってしまっています。

意図的にマネをしようとするようなことはないのですが

なぜか後ろめたさのようなものがあって誰にも相談できずにいます。こうしてメールをお送りするのもこわいような気持ちがあるのですが、思い切ってメールをお送りさせていただきました。

もしよろしければこのことで何かブログを書いていただけないでしょうか。

(Kさん)

すきーなひとやものがおおすぎて、みはーなされてしまいそおだーーー

がわたしの中で再生されていました。

※「好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ」曲名:月に負け犬 / 作詞作曲:椎名林檎さま/発売日:2000年3月31日/アルバム『勝訴ストリップ』などに収録

わたしは、これを、はじめて聴いたとき。

「わたしの心の中が歌われてる」「なぜ?」と思いました。

「誰にも見せたことがないはずのわたしの心の奥を、見てくれている誰かがいて、そのわたしの心の奥の叫び、というか、まだうまく言葉にもできなかった思いを、わたしの代わりに誰かが歌ってくれているような、寄り添ってくれているような、見てくれているような」そんなような感じで、

当時、思春期だったわたしは、衝撃を受け、恋に落ち、胸はかきむしられるようで、頭は真っ白になり、落ち着きを取り戻したあと、ひとまず崇拝することになりました。

わたしは、まさに「大好きなものや人がたくさんあった」のです。(それが反転するようにして「この世界は恐ろしい場所だ(深刻)」と鬱っぽく過ごしていた時期も長かったですが)

「大好きなものや人がたくさんある」というのは、一見善きことというか、幸せなことのようにも見えますが、わたしはいつも自分が見放されてしまいそうな、見放されているような、そんな感覚がありました。

あるときから、なんとなく「好き、大好き」というのは、必ずしも愛や幸せとはイコールではないのかもしれない、と思うようになりました。そもそも、愛とは?幸せとは?と、よく思っていました。

何かを見て好きだと思う。綺麗だと思う。かわいいと思う。

何かをして楽しいと思う。楽しそう、楽しかったと思う。

それは、確かに、素敵なことだし、わたしが大事にしたいと思っていることに違いありません。

「でも・・・」というようなところがあったのです。

大人になり、あるとき、わたしは「好きや嫌い」というのはジャッジでありランキング思考(序列や優劣をつける考え、比較をベースとした考え)であることに、気づくことになります。

「嫌い」というのもジャッジメント。「好き」というのもジャッジメント。

「心地悪い」というのもジャッジメント。「心地よい」もジャッジメント。

「不快」もジャッジメント。「快」もジャッジメント。

ジャッジが悪いわけではないのですが、個人的判断・一時的判断のようなものである、というところは素直に正直に認めるしかありません。

わたしが誰かや何かを好き、というとき「(あれとそれより)これが好き」「これが一番大好き(それ以外は二番目以降)」というようなことになってしまいます。

「これが一番大好き」とわたしから言われた「これ」は、「あれ」や「それ」から切り離されてしまうかのようです。

「これ」はもしかしたら、「あれ」や「それ」のことも大切に思っているかもしれない。

「これ」はもしかしたら、「あれ」や「それ」とひとつで在りたいかもしれない。

「これ」はもしかしたら、みんなとの調和を望んでいるかもしれない。

それなのに、わたしは「これが一番(ほかは二番目以降)」とつまみ上げているかのようだ。

そんな「(極端にいえばつまみあげるような)わたしはこれが一番大好き」は、はたしてほんとうに、愛なのだろうか?

「ほかは二番目以降」と思ってるつもりとかありませんでしたが、でも、たしかに、ここで自分が正直であることを自分に許すならば、「これが一番大好き」と思うとき「(ほかは二番目以降)」はくっついていたのです。

わたしの心の中には「好きな人やもの」があったのですが、なんだかわたしは、外から取り込んでいるような、得ようとしているような、「空っぽの心を埋めようとしているかのようだ」と思ったこともありました。

そんなようなことを考える人生の中で、わたしは「得体のしれない罪悪感のような後ろめたさのような」ものをいつも感じていました。

なぜか、このことを、思い出しました。

ところで、祈り、そして、「心の目でみる」ということを、日々意識的にマインドトレーニングしているのですが(奇跡講座の話です)

そんななかで「”好きの見方”から”愛の見方”とは、こういうことかな??もしかしたら??」ということがたくさんあります。

わたしたちはみんな、”愛の見方”は、すでに知っているとおもいます。

けれども、無意識的だったとき、自分がいまどっちの見方をしているのか、好きの見方なのか愛の見方なのかどっちなのか、ということに無意識だったり、混同していたり、選び直せなかったりすることも、あったかもしれないなぁ、と思うんです。

意識的なマインドトレーニングによって、この意識的な選択というのを練習するように導かれている感じがしています。

「人やもの」を見るとき、一度立ち止まって、「大好きな人やもの中にいる神様」に挨拶することを、おすすめしたい、と思いました。

たとえば、スマホを手にとったとき、一旦、立ち止まって「もし、このスマホの中に神様が宿っているとしたら?」と心で唱えて、「おはよう」と思う、お散歩しているときにすれ違う知らない人の中の神様に「こんにちは」と思う、みたいな感じです。

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