Q & A「なんかすごくこわい!ってなっています」

織絵さんこんにちは。

豊かな愛に心配はない

こちらのブログに書かれていた、

“けれども、本当の解決って、「すでにもう、聖霊によって取り消し済みであること」を受け取るることだと、何度も実感します”

という箇所を読んで、

「私の人生」も、私が創り出すのではなくて、既に聖霊が与えてくれるハッピードリームをただ歩むだけでいいのに、

それを、どうしたら?どうやったら叶う?と悩んだり心配するから苦しいし、そうやってエゴ(思考)が邪魔しなければ、本当にいまただ幸せであるだけなんだな、と。

「私の人生」「私のお金」「私の願い」なんていうのも本当はなくて、私たちはただ与えられていることに感謝していたらいいだけなんだ〜…

というところにまで気がついたら、なんかすごく怖い!ってなっています(これは神に近づく、恐怖なのでしょうか)

織絵さんや、織絵さんのクライアントさんで、このような「怖い!」となった時期を体験された方はいますか?

「こういう時期」についてや、どうやってこの時期を通り過ぎたか、もしよかったらブログに書いていただけたら嬉しいです。

(Rさん)

というリクエストをいただきました。

ありがとうございます。

「織絵さんのクライアントさんで、このような「怖い!」となった時期を体験された方」は、たくさんいらっしゃいますよ。

Rさんとも、一緒にそのような時期、セッションでご一緒した=通り過ぎたことがありましたよ。

そして、それは、「こわい」は愛へとひっくり返っていく、入れ替わっていく、ということでもありました。

この「なんかすごくこわい!」感じ。

「これは、神に近づいているからこそ出てくる恐れ、であるようだ。

わたしは、神の愛(無条件の愛、完璧な愛)を、こわいと思っているようだ。

わたしは、神の愛(無条件の愛、完全な幸せ)を嫌がる気持ちがあるようだ。

神とひとつの神の子であること、兄弟姉妹ともひとつである神の子、本当のわたしとはただ愛し愛されるだけの幸せな神の子であることを受け入れることをこわい、嫌だと思っているようだ。

でも、大丈夫。神からの愛、聖霊からの愛は変わらない。それでもわたしは愛されている。」

・・・どうやら、学びによると、そうらしい。

「いまいちピンとこない」としても、学びによるとどうやらそうらしい。

わたしは、とくに、奇跡講座に出会ってから↑これを、何度も、自分に、言いました。

これを言っていると、すこしだけ、落ち着いてくることもありました。かすかだったとしても、ほっとするような、静かになるような感じがしてくることもありました。

奇跡講座に出会う前までの話(子供時代〜大人)まででいうと・・・

こわいまま、ただそこに座る、「(文字通り)布団にくるまる」ということもたくさんありました。

長い間、恐れを何度も経験したというのもあるのかもしれませんが、あるときから、この「特に具体的な理由もない恐れ」に対して「ああ、あれだな」という感じがしてきて、だんだんと「それでいい(そのままでいい)」という感じがしてくるようになりました。

※ちなみに、あまりにも「こわい」といろんな人に言い過ぎると、この世界では病院の受診や治療を勧められるということが一般的であるようだ(でもわたしはそういう感じではない)、とあるとき気づいてからは、「誰に何を言うか」は”決めてもらう”ように自然になりました。

奇跡講座をつづけていると、この「特に具体的な理由のないこわさ」「強烈なこわさ」が、毎日というほど、出てきていたことがありました。

その「かすかな優しさ」のような「音」から、できるだけ、目を離さない。けれども、こわい。目を離したくなる。そして、こわいから、と逃げ出したくなる。

しかも、それが毎日のようにつづく、というのは、まるで「水の上を歩く」かのようだ、と思ったことがありました。

「水の上を歩く奇跡」というは、新約聖書のマタイによる福音書14章22〜33節に登場する有名な話のことです。

そんな日々の中で「???」と思っていたことがあります。

(セッションやブログ以外でもそうだった、という話なのですが)

なぜか、まわりから「とても幸せそう」とよく言われていた、ということです。

驚いたのは「すごく幸せそう。秘訣はなに?」と聞かれたときさえあった(しかも何度もあった)、ということです。

「朝、あんなにこわくて、今日もまた水の上の奇跡を読んできたばかりだった」にもかかわらずです。

このことは、わたしにとっては、不思議で、とても喜びを感じること、優しい喜びが広がっていくようなことで、そう言ってくださった方たちは、わたしの目には、聖霊に見えていました。

もしかしたら、その方たちは、聖霊のまなざしで、わたしの中の聖霊を見てくれていたのかもしれない。わたしも聖霊とともに見ているのかもしれない。よくわからないけど、でも・・・と、心が「そちらのほう」に開いていくような、求めるような感じがありました。

「”こわがっていて弱っているわたし”を、誰かが心配する」「問題点を見つけて改善する」というよりも、

ただ「幸せそう、素敵ね」と言ってもらえる、自分では見えていなかったものを見ていただける。

これは、たしかに、わたしがそのとき、一番必要としていたものを、形(人、出来事、言葉)として与えられた経験でした。その人から、その人の中の聖霊から。

「なんて素敵なんだろう、こんな体験をもっとしてみたい!聖霊の目で見たいし、見ていただきたい」そんな願いが出てきたので、それはそのまま、聖霊にまるごと渡しました。

自分でこの願いを持っていると「聖霊の目で見てほしいなんてわがままだ。まず自分がそう見なければならない」と自分をまた厳しく責めて管理しようとする道具(というか武器)にしてしまうかもしれないし、

「自分一人の力で、自分が自分の願いを叶える」ということはできない、ということは、長い時間をかけて学んだからです。

一番最近の話をここには書かせていただきましたが、このような経験を何度も繰り返しながら、

本当の本音・本心を恐れなくなっていった気もしているし、聖霊との信頼関係が少しずつ深まってきているのかもしれない、と思っています。

そして、これは奇跡講座を学びはじめて、特に何度も何度も理由なく浮かんでくるようになったことなのですが、

神の愛を恐れている、嫌がっているからこそ、

誰かとの関係性、「好き」だと思っているもの、「心地がいい」と思っているもの・・・

「私の人生」「私のお金」「私の願い」「私の身体」「私の心」「私の思い」・・・

そういったすべてを聖霊に渡し、聖霊に使っていただくことで、

少しずつ、少しずつ、こんなにも愛し愛されているということを思い出し、その中で喜びを感じ、分かち合い、すでにずっとそうだったかもしれないことを思い出し・・・

という奇跡をたくさん目撃していく、そうして、聖霊や神との「信頼関係が回復」されていく、

無意識のうちにわたしの方が、こわいから、嫌だから、「愛の拒絶」をしていたところ、その頑なに閉じていた扉がひとつひとつ、開いて、「こんなにも幸せ」ということを、たくさんたくさん受け取っていく・・・

何度も恐れや動揺、罪悪感は出てくるかもしれませんが、また、奇跡を体験することで、恐れや不足の信念・価値判断はどんどんどんどん洗い流されていく・・・

そんな感じがしています、そのように、どうぞ、お使いください、助けていただきたいのです、と聖霊にお願いすることもできます。聖霊は必ず答えてくれます。

けれども、そのために、

・祈り、尋ね、心を傾けて、聖霊の導きに従っていくこと

・正直であること(誤魔化し・取り繕い・隠しごと・あまのじゃくをやめる)の練習、防衛、投影、正当化に気づいていく練習

は、欠かせないとおもっています。

なぜなら、幸せを望むから。

そして、わたしは自分一人ではまるで赤ちゃんですが、聖霊にできないことはないからです。

赤ちゃんのように右も左もわからない、何が危険で何が安全なのかわからない、匙加減もわからない、それはまるで「自分ひとりでは包丁の使い方さえわかってない」ような感じなので、本気で尋ねていますし、ガイダンスには従いたい、そんな日々です。

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