Q & A:「嫌なこと、こわいことほどやってみるとは?」

「嫌なこと、こわいことほどやってみたほうがいいのでしょうか?」

というご質問もときどきいただいております。ありがとうございます。

こちらについて、ブログを書いてみたいと思います。

「嫌なこと、こわいことほどやってみたほうがいい」

というのは、たしかに、マインドトレーニング・心理療法・伝統的な精神修行の文脈で出てくることがあるようです。

これは

「自分の今まで通り、いつも通り、慣れ親しんできたもの、過去のパターンの繰り返しという”自分が思ってる安全”から一歩出てみませんか?そして、それでも大丈夫だったという体験を受け取ってみませんか?」

という側面があるのではないかと思います。

というのも、わたしたち人間が「こわい」「やりたくない」と感じるものの中には、

・未知に対する恐れ

・変化に対する恐れ

・失敗することへの恐れ、間違うことへの恐れ

・セルフイメージ(自分とはこういう人物だという自分像)がゆらぐことへの恐れ

などがあって、これは、よく見てみると「愛への恐れ、幸せへの恐れ」ということがあるからです。

愛は、「小さなわたし」が下す、正しい・間違いというジャッジ、失敗・成功というジャッジをはるかに超えていますので、

愛(想定を超えた奇跡、幸せ、過去の祝福)に対して「失敗するのではないか?」「間違うのではないか?」と疑ってみても「そもそも次元が異なる」ということがあっても不思議ではありません。

けれども、だからといって「こわいと思うもの、嫌だと思うものを、常になんでもやりなさい」ということかというと、全然そういうことではありません。

聖霊は、不必要に怖がらせること、崖から突き飛ばそうすること、脅しながら強要してくるようなことは、しません。

わたし自身の経験で書くと、

「これは、導きに対して、嫌だ・こわいといってるだけかも?」というようなときは、

「ほんとうはそれをやってみたいかも」という思いが、かすかに、ある感じがすることが多かったです。

けれども、このときの「やってみたいかも。なんだかそれいいかも。素敵かも。わくわくするかも」は、

非常にかすかな声

であったことが多い気がするなぁ、と思います。

「なんだかそれ、素敵かも」というかすかな、控えめな声。

【お店屋さんで子供が「このおもちゃがほしい!買ってよ!なんで買ってくれないの!いいじゃん、買ってよ!」と泣き喚くような声】がエゴ(不足、恐れの声)だとすると、その真逆にあるような感じかもしれません。

もちろん、聖霊の導きは「こんな感じか、こんな感じである。絶対そうである」と固定できませんが。

そして、その「かすかな声」を覆い被せてくるものとして、「あるある」といわれているのは、

・でも、お金は?

・でも、時間は?(いま忙しいし時間がない)

・でも、体力は?(もう、こんな年だし)

・でも、できないかもしれない(能力が足りない、経験がない)

・家族や友人が反対するかもしれない。迷惑をかけるかもしれない

・でも、昔、失敗したし

など、一斉に「でも」が出てきます。

しかも「お金、時間、体力、身体、能力の心配、問題」や「家族や友人の意見、人の目、世間の目」や「過去の話」などが一斉に湧き出てくる、ということはよくあります。

このあたりは「(素敵かも、と思ったけど)やっぱ、やめとこう」と引き留めるだけの「説得力」があります。

ほかにも、

・いや、でも別にそこまでやりたいわけじゃないし。

・何をどうやってやるかわからないし。

・やらなくてもいいし。

・別にどっちでもいいし。今のままでも満足だし。

というような「別に興味ないし」というふりをしたエゴの声が覆い被さってくる、ということもあるかもしれません。

それで「嫌だ、こわい」について「無理してやろうとする」必要は、一切ない、のですが、

「ずっと、今まで通りの自分の安全」を自ら選んでいて、かすかな「やってみたいかも」を無視しつづけていても、不満やモヤモヤが募る(そしてそれがはからずも投影される)、ということはあるかもしれません。

そして、この「見分け方」のようなものとしては、

・練習、経験を繰り返す

というのが、一番確かなものなのかもしれません。

赦しを学ぶ、祈る、というのは、この「やるか?やらないか?」というところを超えた本当の原因のところへと、戻っていくこと、自我ではなく聖霊(本当の本心)と一致することを助けてくれます。

赦し、原因が選び直されるなかで、「行動」は自ずと現れる、と言われることもありますが、

しかし、これも、わたしの経験でいうと、「原因が入れ替わった感、恐れが取り消された感がない」ということもよくあったと思うし、「わからないまま、ただ心を開いて信頼して行動する(そして奇跡を受け取る)」ということもたくさんありました。

その繰り返しの中で、聖霊との信頼関係が回復されていく、深まっていくのかもしれません。

「これは、導きかもしれないので、いますぐ、行動に移さなければならない」

「行動に移さないと大変なことになる」

「チャンスの女神は前髪だけしかないので、このチャンスを逃せば、一生、バス停にひとり取り残されることになる」

など、恐れの声がありそうなら、それも、光へと運ぶ、ということも大切にしたいです。

その方が、逆に、スムーズに自然と動いていた、ということもあります。

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