セッションなどで、共に祈り、鏡の実践(光バージョン)をご一緒していく中で・・・
「受取拒否しているのでは?と不安な気持ちが出てきます。このことについて、何かお話を聞きたいです」
というご質問(リクエスト)をよくいただきます。ありがとうございます。
今日はこのことについて、ブログを書いてみたいと思います。
わたし自身も「受取拒否しているのでは?」というような思いが出てきたことがありますので、例を書いてみたいと思います。
「受取拒否しているのでは?」というような思いが出てきたとき、
「わたしは、いま、受取拒否しているかもしれない」
「わたしが受取拒否しているなら、どんなに与えられても、受け取れないということ」
「このままだと、一生受け取れず、愛から見放されて、置いてけぼりになり、孤独で惨めになるということ」
「受け取り許可したのに、心は落ち着かない。だからわたしは受け取り拒否できないということ」
「でも、どうやって、受け取ればいいのかわからない。わからないのは、ダメだということ。自分でわかるまで一生愛にふさわしくないということ」
など不安がいろいろな「考え(結論づけ・意味づけ・解釈)」を引き連れている、ということがありますので、それは光にさらします。
「これはこういうことだ」という考えや恐れを手放すことは、窓のカーテンを開けるようでもあります。
そして、この「どうやって」のところを、聖霊に捧げる、みたいな感じです。
「どうやって」が自我に捧げられていると、「自分でなんとかしなければならない」となったり、答えのないところに答えを求めたり、となります。
※わたしにとって、奇跡講座は、この「なにを、どうやって」を具体的に教えてくれている、という感じがしています。
わたし自身も「受取拒否しているのでは?」というような思いが出てきたことがある、に話を戻すと、
(1)「エゴ(個の意識)自体が受取拒否のシステム」みたいなところがあるので
(2)「受け取り拒否しているのでは?」と思うときは、そのまま「聖霊の赦しを学ぶ機会」と思って立ち止まる。
(3)聖霊に祈って尋ねたり、問いかけたりします。
※もし、それでも、もう何日も閉塞感や停滞感のような、もやもやした感じが続いている、というとき(さらにそのままでいいとも思えないようなとき)は、兄弟に助けを求めます。
「受取拒否しているのでは?と心配になる」とき、
「もしかしたら、今、癒しの光のもとへと運ぶもの、奇跡の道具となるもの」があるサインかもしれないし、
「エゴに気づく」という【エゴ(恐れ・制限・不足)から解放される機会】かもしれません。
”エゴに気づく”ということは、”神聖な光”があるということですから、それを認めるとき、与えられたものとして受け取るとき、かもしれません。
いずれにせよ、聖霊が導いてくれます。
祈り、尋ね、導きに従うことは、「現時点において、具体的に何をどうすればいいか?」ということを愛(聖霊)からのものとして生きる・・・そんなことを認識できるようにしてくれるような感じがすることがあります。
「わたしにはもうどうすればいいかわかりません」「わたしには理解ができません」「だからどうぞ教えてください」と祈るとき、それは必ず答えられます。
けれども「不必要に恐がらせる」ようなこともしない、というのも、その通りだと思います。