買い物しすぎて、お金を使い過ぎている気がして、このことに罪悪感があって気になっています。
本来なら、無駄遣いせず、お金を貯めて、セッションを申し込むべきだと思うのですが、それが全然できなくて、でも、とても苦しくて、メールをお送りさせていただきました。
どうしたらいいでしょうか?どうしたらいい、という話ではないということも聞いたことがあるのですが、このことについて、何かブログを書いていただけないでしょうか?
というリクエストをいただきました。
ほんとうにありがとうございます。
先日、新聞を読んでいたら「薬過剰摂取 10代搬送4倍」という記事がありました。
「薬の過剰摂取(オーバードーズ、OD)で救急搬送された人数を調べたところ、2025年の10代の搬送者数が15年と比べて4倍超えになっていたことがわかった」という内容でした。
もう20年以上前の話になりますが、わたしはこの「10代で薬過剰摂取により救急搬送されたひとり」でした。
あのときのことで、なぜかいまもはっきりと覚えているのが、ノートに「ただありのままを受け入れてほしい」と書いていたことです。
そのページを、写真のようにして、なぜかいまも覚えています。
いま思えば、まわりにいた人たちはみんな、そのときの最大限の愛を与え、そのままを受け入れてくれていたことが、すごくよく感じられるので、
もしかしたら、あのときもいまも、”わたし”がわたしに願い続けていること、だからいまも覚えてるのかもしれないな、なんて思いました。
「存在そのものを受容すること」
「ほんとうの意味での自己受容」
わたしはそれを、長い間、外側の誰かや何かに求めてきたように思います。
『薬物は、いわば「呪文」の諸形態である。(奇跡講座 T-2.V.2:2)』という言葉があるのですが、まさに、わたしには、たくさんの”呪文”、たくさんの”おまじない”が必要だと思って、求めていました。
なぜなら、ただ在ることを、自分が自分に許せていなかったから・・・そんなことを思います。
「ただ存在しているだけでいい。ただ存在しているだけで価値がある」
「何も生み出さなくても、ここにいていい。生きていていい」
「完璧になろうとしなくていい。なぜならすでにありのままで完璧だから」
そんな無条件の愛を、たしかに心の奥では求めていたのですが、同時にとても恐れていて、そのことを自分でもよくわかっていなくて、とても苦しくて、心細かったのです。
「恐れている」ということで思い出すのは、あのころときどき、静かになると、深い深い空洞が大きく広がっていくようで、それはブラックホールのようで、わたしはいてもたってもいられなくなり、そこから逃げ出したくなっていました。「薬」が避難場所のようになっていたのです。
その苦しみや心細さ、あの「恐ろしい空洞」を「自分で自分をなんとかしよう」と思ってしていたことの現れが、わたしの場合「薬」だったのかもしれません。
この「避難場所」は、もしかしたら、いろんな形・・・物質、行為、関係性・・・いろいろあるのかもしれません。
「買い物」というのも、よく見てみると「わたしが何かをしている」という感覚が伴っていることに気づいたことがありました。
「わたしは何かをしている。だからここにいていい」
「わたしは何かをしている。だから生きている」
「何もしていないわたし、何も生み出していないわたしは、存在していてはいけない」
・・・極端にいうと、しいて言葉にするなら、ですが、このような感覚が、いつも付きまとっていたようだったな、と思います。
存在そのものを受容すること。ただ在るということ。ただここにいるということ。
わたしは、このことを恐れていたのかもしれなくて、こわくて、だから、たくさんの「呪文」が必要に思えました。
そのあと「自分もまわりの人たちも、思わず奇跡と呼んでしまう体験」があり、あるときから、なぜか、自然と、薬は飲まなくなりました。
「何をしたんですか?」と聞かれることがありましたが、わたしは、本当に、何もしていなかったのです。
その代わり、その”奇跡”に魅了されたようになり、興味を持つようになりました。
わたしはだんだんと、呪文の代わりに、祈りを欲するようになりました。
おなじないよりも、魔法よりも、神を、奇跡を、欲する気持ちがどんどん強くなっていきました。
「自分なりのお祈り」を捧げることもあったし、「有名なお祈り」をいろいろと調べてみて、そのとき心に響くものを書き留めて、たくさん唱えてみたりもしました。
あの頃、たくさんたくさん唱えていた「有名なお祈り」で、すぐに思い出すのは、
神様、私にお与えください。変えられるものは変えていく勇気を。変えられないものは受け入れる落ち着きを。そして、二つのものを見分ける賢さを。
です。「ニーバーの祈り」ですね。
「意味がわからない」とずっと思っていました。
「こんな自分でも意味がわかっていないことを祈って、意味があるのだろうか?」なんて思っていたように思います。
けれども、わたしの中の「奇跡を起こした力」が、心の奥で「これを祈りなさい」と言っているかのようで、なぜかずっと祈っていました。
それは「海で溺れかけていた救命浮輪のようなもの」だったので、わたしはわからないままそれにしがみつくことにしました。
「朝起きたとき、その祈りが自然と思い出されるほどに」たくさん祈りました。
ほかにも、たくさんの「有名なお祈り」を調べて、わたしは、たくさんたくさん、唱えました。
「意味がわからないまま」です。
それはまるで「たくさんあびたであろう呪文の分だけ」というほど、たくさんたくさん、祈りました。
その祈りは、わたしが呪文やおまじないをしたいと思って何かをしているようなとき、ずっと、優しく寄り添い、見守っていてくれました。
ただ在ることを受容できず、何かしたいと動き回っている間、ずーっと、一緒についてまわってくれたのです。
ぽかぽかと、優しく、おだやかに、照らしながら、です。
「本来なら、無駄遣いせず、お金を貯めて、セッションを申し込むべきだと思うのですが」と書いてくださっていたところを読んで、もしかしたら、その「自分で無駄遣いだと思っていること」の中に、
大切な大切な「小さなわたしの祈り」があるかもしれない、と思いました。
いつかその、そこで見つけた、大切な祈りを、教えてほしいな、と思いました。
ありがとうございます。