「愛されても仕方がない」とは?

あるとき夢を見ました。

わたしはテレビでニュースを見ていました。

すると「犯人と思われる人物の自宅のまわりを警察?がぐるりと囲んでいる映像」が流れていました。

警察というより、重武装した軍隊?FBI?SWAT???のような感じで、ニュースというよりハリウッド映画でしたが、夢なのでニュースです。

そして、そのあと「そのテレビのニュースの映像(犯人と思われる人物の自宅のまわりを武装したSWAT隊員?たちがぐるりと囲んでいる)=わたしのこと」に状況設定が突然すり替わり(夢あるある)

「こわいよ〜」と思って、目が覚める、という夢でした。

そして目が覚めたとき、

「自分は自分で気が付かないところで罪を犯している(それはそういうものだ、みたいな、漠然としているのに決定事項みたいな感じ)」

「だから罰せられても仕方がない」

という考えを信じてたんだ!と、驚き、思わずちょっと笑ってしまいました。

まさに「わたしがその考えにリアリティを与えていました」という、とてつもない解放感、清々しさでした。

そして、それは、同時に、あたたかく包まれるような、愛おしいような慈しまれているような、そんな優しい感覚でもありました。

夢の中のわたしは「なにか悪いことをした」ということはなかったにも関わらず、

「わたしは清廉潔白なので、どうぞどうぞ」という感じでもなく、

「なんだろう???(無垢)」という感じでもなく、

「自分は自分で気が付かないところで罪を犯している。だから罰せられても仕方がない」と信じていたので、

「こわいよ〜。どこかに連れていかれちゃうよ〜」となっていたのです。

そういえば、ずっと前「冤罪」や「濡れ衣」などのテーマが出てくる映画やニュースを見ながら、すごく心が揺さぶられていたことを思い出します。

「自分は自分で気が付かないところで罪を犯している。だから罰せられても仕方がない」

これは、自分に対する冤罪ではないか、と思いました。

振り返ると、この信念は、日常生活のほんの些細なところに、胸の痛みや緊張感というサインがありながらも、散りばめられていた気がします。

「心の癒し」「内観」などのテーマの中で、

よく「無意識にあった何かに気づく」「闇を明るみに出す。闇を光の元へと運ぶ」というようなことが言われることがあります。

これは「誤り」に気づく、ということで。

上記で言うところの「自分は自分で気が付かないところで罪を犯している。だから罰せられても仕方がない(それはそういうものだ)」などのことで。笑

「誤り」は光に晒された瞬間、力を失いはじめます。(上記の夢から目が覚めたときみたいに)

(けれども、心が闇を信じ込んでいて、それを手放さないとき、大事に大事にしまいこまれているとき、光は闇の中に無理やり侵入してくる、みたいなことはしません。そのときは世界・他者や自分・状況に投影され、分離ドラマの中・・だったりするものです)

けれども「闇=邪悪な何か、罰や裁きや攻撃にふさわしい何か、みんなから嫌われて当然の何か」「誤り=恥ずかしいこと」「誤り=取り返しのつかない罪や失敗」と思い込んでいるときがあります。

「無意識にあった何か=自分の罪、自分の欠陥、自分のダメで恥ずかしいところ」

「闇=自分の罪、自分の欠陥、自分のダメで恥ずかしいところ」

みたいな「自我の自動翻訳」がされているときがあります。

すると「心の癒し」も「内観」も「赦し」も「祈り」も、

「環境」も「関係性」も「世界」も、

どんなものでも、苦しくなります。

苦行になります。

まるで心の中が「こわくて厳しい詰問所」みたいな感じになってしまっていることがあります。

そんなとき「もう嫌だ」と思うことがあります。

「こんなのもうやりたくない」と思うことがあります。

そんなときは、立ち止まって、自分を、心を、見つめてあげたいな、とおもいます。

「嫌だ」「こんなのもうやりたくない」という、その思いの奥にある「本音」はなんだろう、

ほんとうの思い、ほんとうの望みはなんだろう、、、

心の奥の奥にある「ほんとうの望み、祈りそのもの」により、いつも、完全に導かれていますが、

わたしのほんとうの望みはなんだろう?と問うこと、自分自身に興味を向けてあげること、

そして、祈りによって、その導きや、すでに与えられているものに、気づきやすくなる(受取拒否はいつの間にかやまっていく)ようです。

気づきの光・祝福に、感謝です。

このブログを書いて、読み返していると、

「自分は自分で気づかないところで愛を広げている。だから愛されても仕方がない」

という考えが、何度も何度も、しつこく!笑、浮かんできていました。笑

もし「自分は自分で気が付かないところで罪を犯している。だから罰せられても仕方がない」という考えを、わたしも信じていた、信じていたかもしれない、けれどもそれにリアリティを与えるのをやめたい、という方がいらっしゃったら、

「自分は自分で気づかないところで愛を広げている。だから愛されても仕方がない」

ということを心で共に受け取ることができたら、なんて素敵だろう、とおもいました。

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