「エゴ(自我)の自動プログラムから解放されるには、エゴに気づくだけでいい」
とはいえ、なかなか気づきにくいもの、手放すことも難しく思えるときもありました。
その一つに「自我を問題視して、自我を排除、コントロールしようとする自我」があります。ここではそれを「超自我」と呼ぶことにします。
自我が「わたしはこれこれである」と宣言するなら、
超自我は、その自我に対して、
よりよい自我であるにはどうすればいいか、何をすべきで何をすべきではないか、
何がダメで何を改善すればよりよい自我にすることができるか、
何をどうすることによって、どうなるはずなのか、
世界は、ほかの人々は、どういう状態か、
他の人々に比べて自分はどうか・・・・・・と判断し、分析し、コントロールしようとします。
超自我は、「権威的」であり、ちょっと「神様(あるいは親や先生)」に近いように思えることがあります。
けれども、本当の神ではありません。
本当の神(聖霊、導き)は、100%の愛と容認であり、決して裁かず、罪悪感を持たせません。
超自我が提示する「厳しさ」や「正しいとされるルール」は、「自我が作り出した恐ろしい裁きの神(偽の神)」のようなもの、という側面もあるようです。
それは、罪悪感をベースにし、「〇〇しなければ××になる、罰せられる」「ルールを守らなければ、愛されない、受け入れてもらえない」という裁きを伴います。
まるで、自我が恐れから作り出した神の偽物(幻影)のようです。
超自我は悪ではなく、「正しい」と思えることがあります。
たとえば「人様に迷惑をかけてはならない」と思う(思い込んでいる)、というのは、日常生活を送る上でよくあることかもしれません。そのように思うことは悪くもなんともありません。
そして、”自然であること、自由であること”を心の深い部分が求めはじめるとき、
この「人様に迷惑をかけてはならない」という考え(超自我が)、負担のようになっている、ということに気づきはじめることがあります。
「本当は〇〇さんに手伝ってほしいけど、迷惑をかけるかもしれない」
「本当は〇〇をしたいけど、迷惑をかけるかもしれない」
と予測して、”導き”にブレーキをかけることもあるかもしれないし、
誰かと過ごしたその後で「あれは迷惑だったかもしれない」と何度も何度も反省会を開く、ということもあるかもしれません。
「心の奥から湧き上がってくる大切な思い」にブレーキを踏み続けることも、
過去のことを何度も何度も査定し、自分を責めて、後悔することも、
自分自身が一番苦しいし、「疲れる」感じがしてきます。
けれども、同時に超自我は、「〜したい!」という本能的・衝動的な欲求にブレーキを踏み、社会生活や関係性の中でうまく機能してくれてきたように思えることもあります。
「人様に迷惑をかけてはならない」というのは「本当のことで、正しいこと、愛や調和に基づくもの」のように思えてしまうことがあり、ここがまさに、自我(超自我)の最大の罠といえます。
超自我の主張は、一見「愛や調和」に見えるようなことがあるのですが、その本質は「恐れと罪悪感の回避」です。
よく見てみるなら「迷惑をかけたら責められる」「嫌われる」「罪になる」などの恐れが根底にあることがわかります。
さらに「【人様に迷惑をかけてはならない】という考えを、もし、手放したら、大変なことになるのでは」という恐れ(抵抗)が上がってくる、ということもあります。
「このルールを手放したら、お前は野蛮な無法者になって、周囲も巻き込んで大変なことになるぞ!」と脅してきます。
このように書くと、超自我がまるで「悪者」「敵」のように思えてくることがありますが、そうではありません。
超自我は、その前にあった「わたしはこれこれである」を「守ろう、良くしてくれよう」としているともいえます。
そして「ルール」や「教え」や「道標」そのものが害になるわけではありません。
本当のルールは、恐れや罪悪感からではなく、「一体性」の安心から生まれる自然な配慮です。
(※1)今回の「超自我」という言葉は、精神分析学のフロイトが提唱した「エス(欲求・本能)ー自我ー超自我」から言葉を借りてきました。エス(欲求・本能)は、本能的な衝動・欲求で、暴れ馬に例えられることもあります。