現実逃避や現実直視のなかの「現実」とは何か?

「現実逃避」「現実直視」という言葉がありますが、

その「現実逃避」や「現実直視」の中の「現実」とはなんなのでしょうか。

心や真実に興味を持つ中で、「現実」という定義がわたしの中でどんどん曖昧になるような、混乱していくような感覚になったことがあります。

ずっと前、「現実の直視」とか「現実を受け入れること」と聞くと、

心のどこかで「ダメな自分を受け入れること=ダメな自分として生きること。それが嫌なら頑張りなさい。頑張れないなら、いろいろと諦めて、”身の丈”に合った生活(すなわち惨めな生活)をしなさい」と、突き放されているような、見放されているような気持ちになったことがあったことを思い出しました。

いま「霊的な目覚め」「明け渡し」「自己探求」などで、よく使われる「現実」を文章にしてみたいと思います。

ふたつ、あります。

ひとつ目は、

「絶対的な普遍の真実」「神の愛」「真理」「ひとつの意識」などの言葉で表現されるそれです。解釈や見方すら存在しません。

これは究極レベルみたいな感じです。

ふたつ目は、

その時点で現実だと信じている「見方・解釈・意味づけ」のことです。

「その出来事・人・言動に何をみたか?」「その状況をどうみているか?」です。

もし「出来事・人・言動・状況」を、本当にありのままに見るなら、それそのものに、苦痛や不快感や脅威となるような問題(そしてその原因)が含まれてはいないということがわかります。

ひとつ目の現実までの架け橋として、この「見方・解釈」を直視して、ゆるして、奇跡(知覚のシフト)を求めて、受け取っていく、という体験を繰り返していきます。

そして「わたしは普遍の真実、心の奥にある本当の幸せと一致したい」ので、一つ目も二つ目も、いつも思い出しています。

「現実逃避」や「現実直視」について、具体的なことに当てはめながら、「現実」とはなんなのかについて、書いてみたいとおもいます。

例:
いまの会社を辞めて、転職したい

よくあるかもしれない「現実直視」:

「嫌な職場」という「厳しい現実」を直視して、自分の市場価値を分析し、必死に転職活動(対処行動)をすること。

「世の中は世知辛いものだ」「仕事=我慢だ」と言い聞かせて、職場に留まること。

それが悪いわけではないし、無駄だったわけでもありません。

けれども、ひどいストレス・緊張になるかもしれません。

「現実逃避」の例:

不満や不安を感じた瞬間、求人を検索し続けたり、資格の勉強をがむしゃらにする。

「上司のあの言い方が悪い」「会社の体制が古い」と頭の中で何度も反芻して怒りを感じたり、同僚や家族に愚痴を言い続けたり、「もっといい環境だったら自分は輝けるのに」と妄想に耽る。

スピリチュアルバージョンの「現実逃避」の例:

「この職場も上司もどうせわたしの投影だから関係ない」「すべては夢だから不満を感じる私などいない」と、スピリチュアルな知識で無理やり納得しようとする。

「あの人は波動が低いから」「あの人は恐れが強くて嫉妬している」と他者を分析してラベルを貼る。

これも悪いわけでも、間違っているわけでも、ありません。

けれども、いつも苦しい感じがしたり、とても疲れる感じがしたり、環境を変えてもまた新しい問題が発生するように思えたりするかもしれません。

心と向き合うときの「現実直視(見方、解釈をただ見る)」:

「今の職場は環境が悪い」「上司と合わない」「自分の能力が活かせていない」という不満や「このままでは将来が不安だ」という恐れがあり、これは「動かしようのない物理的事実」というよりも「見方、解釈である」ということを、「ただ見る、よく見る」こと。

(問い)

・わたしはこのことをどういう見方で見ているんだろう

・わたしはこのこと(職場、環境、他者など)にどんな解釈を与えているんだろう

起きていたことの整理の例:

実は、職場という外側の出来事を使って「自分は満たされておらず、不足しており、環境や人々の被害者である」という恐れと罪悪感の認識をリアルに強化していたかもしれない。

赦し・奇跡においての「現実直視」とは、外側の職場環境や人々、自分という人物を分析することではなく、

「自分は今、心の中でどんな恐れの解釈をしているか」

というところを、ただ、そのままに見つめて、聖霊の見方(内なる光の視座)を選ぶことです。

「いまの会社を辞めて、転職したい」の例でいうと、

わたしは「この職場(環境、外の誰か)が自分を苦しめている」と信じていた。

そして、職場を理由にして「自分は足りない存在だ」と信じ込んで、「自分は足りない存在だという現実」から逃げるために「転職」という行動に逃避しようとしていたかもしれない。

もう、この恐れや不足感に基づいた見方・解釈を持ち続けていたくない。

だから、自分の解釈(判断)をやめて、聖霊(内なる静けさの視点)に解釈を明け渡す。

「転職するかどうか」という外側の条件に関係なく「わたしのほんとうの価値や平安(幸せ、喜び)は、外の環境や人々によって、一ミリも傷ついていないし、損なわれていない」という真実へと戻ります。

「対処行動や愚痴、スピリチュアルな知性化も逃避だった」ということをただ見るとき、それすらも、ただ恐れていた心が助けを求めていた姿であり、自分が必死に自分を守ろうとしていた愛おしいプロセスだった、ということに気づかされます。この気づきは、心を深い落ち着き、安心、慈しみのなかへと戻してくれます。

転職自体はするかもしれないし、しないかもしれません。

その職場を辞めるにしても「恐れからの逃避」や「嫌だからやめた」という恐れや拒絶、攻撃のエネルギーからの選択ではなくなります。

会社に残るとしても「ここは自分の価値を脅かす場所ではない」ということにはっきりと気づかされるかもしれません。それは素晴らしいことです。

そして、そこから先は「あなたの中の(一人ひとりのなかの)聖霊が書き込むところ」であり、

それは奇跡を体験し、心底癒される、幸せなあゆみです。

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