「与える=受け取る」とは何か?

奇跡講座では「与えることと受け取ることはひとつ」というレッスンがあります。

与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。

「この与えることと受け取ることはひとつである」とは一体どういうことでしょうか?

これは「形」に焦点を合わせていると「あり得ない話」になってしまいます。

形に焦点を合わせるの例:

わたしは林檎を10個持っています。お隣さんに5個あげることにしました。すると、わたしの林檎は、どう考えても10から5へと減った、ということが事実となります。

※「スピリチュアルだから」といって「林檎を5個与えたのだから、巡り巡って、林檎が5個戻ってきます」という話ではないです。「そういうことは、あるかもしれないけど、ないかもしれない」です。

このように「形」にフォーカスした途端、「与える≠受け取る」となります。

「与えれば与えるほど減る」という物理的事実を無視しようとする必要さえありません。

じゃあ、一体、なんなのでしょうか。

「与える=受け取る」の例:

「わたし」はお隣さんに心からの感謝を感じていました。

手元に林檎があったので、お隣さんにもいくつか持っていくことにしました。

お隣さんに林檎を持っていくとき、「わたし」の心はすでに感謝と幸福感で満たされています。

ここでの林檎は感謝がたまたま「林檎」という形・手段を通っただけです。

なので、「わたしの手元の林檎」は減ったかもしれませんが、

「感謝を現したい」と思っているいま、わたしはすでに心に感謝を受け取っている、ということです。

「お隣さんはどんな反応をするだろうか」とか「お隣さんからいらないといわれたらどうしよう」のその奥では愛や喜びや感謝を与えて受け取ることを知っているハートがすでに誰の中にもあって、その部分は「結果(相手の反応など)」が自然と気になっていない状態です。

これは努力してそうなるもの、というよりも、恐れから解放された心の状態であり、誰の中にもあるものです。

「与える=受け取る」という真実に心を開いていく中で、

「与える」というのは、認識・見方・知覚として見ていくことができます。

なので、「与える」というのは、

林檎の例でいうと「誰かに林檎を与えるという行動そのもの」や「言葉」や「林檎の数」というよりも、

「わたしの中にあった、自然と感謝したくなる心(認識・見方・知覚)」ということです。

「なんて愛されているんだろう」と認識しているとき、その時点で愛していることになります。

「愛されてない」と不満や疑いや拒絶のような思いがあるときというのは、それに気づいていく(手放していく)ということで、

もともとある「自然と平和・喜び・感謝が溢れ出ている状態」がおのずとあらわれます。

「最近、感謝ができなくなっている。感謝したい」というお話をお聞きすることがありますが、

それは、本当の自分自身、自然体、本来の姿に戻りたい、ということかもしれない、と思うことがあります。

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