「できない」「わからない」「無理」「限界」
を自分が自分に許せているだろうか?
自分自身の内側から微かに、確かに、発せられている
「できない」「わからない」「無理」「限界」
のサインに立ち止まれているだろうか?
「できない」「わからない」「無理」「限界」という内側からの感覚を、もし、
自分が自分に許せていない、立ち止まることを許せていない、見ないようにしているとするならば、それは、
「わたしがわたしの中のなにを守ろうとしているからだろうか?」
「できない」「わからない」「無理」「限界」という感覚があるときって、
もしかしたら「闘いたくない」「なんとかしたくない」「自分でやりたくない」というときかもしれないし。
そして、もしかしたらそれは、そもそも戦う必要もなく、自分でなんとかする必要がないもの、「自分の領域じゃなくて神様の領域のもの」かもしれない。
「受け入れる必要がないものを、受け入れたくない」というときもあるかもしれない。
「心とは本来は平和を望むもの」というけれど、心が平和を望むことを、もう邪魔したくないところがあるのかもしれない。
ここでいう自我(エゴ)というのは「不可能なものを可能だと証明しようとしつづける連鎖」のことなので、
もし、それに対して、「できない」「わからない」「無理」「限界」「疲れた」と思うなら、
自分の中のその連鎖をストップさせたい、休息させたい、もう使いたくない、ということなのかもしれない。
「自我(エゴ)というのは、不可能なものを可能だと証明しようとしつづける連鎖」の「不可能なもの」というのは奇跡講座でいうところの「神から分離すること」。