「願い」と「祈り」について

奇跡講座の視点から見た「願い」と「祈り」についてまとめてみたいと思います。

日々、何かを“願う”心を持っています。

もっと愛されたい、理解されたい、豊かでありたい、安心して生きたい——

そうした願いを持つこと自体に、罪悪感を覚えるということも少なくないようです。

「そんな願いをもってもどうせ叶わない」と、心の奥に自己卑下(小さな自分というイメージ)を眠らせたままにするということもあるかもしれません。

けれども、奇跡講座は願いを「悪いこと」と見なしていません。

むしろ、それを「分離を体験している心の呼び声」として受けとめます。

聖霊は、特別な関係を神聖な関係へと翻訳してくれます。

ここでいう「特別な関係」とは、愛や絆を通して「分離した自己を満たそうとする関係性」のことです。

聖霊は、それを「分離の証拠」としてではなく「神の愛、無条件に与えられ続けている愛を思い出す教材」として翻訳します。

願いもまた、聖霊によって翻訳されうるのです。

目次

願いは愛を思い出したい心のかたち

願いとは、「何かが足りない」「欠けている」と信じてしまった心の動きです。

「足りない」「欠けている」のは事実ではなく、「そう信じ込んだ心の状態」です。

「本当に満たされている心」では、自然と願望が静まり、静かな充足が自然とあらわれます。

そして、「何かが足りない」「欠けている」と信じているその奥には、「本当は愛そのものだった自分を思い出したい」という純粋な衝動があります。

つまり、願いは分離を体験している心が“帰り道”を探しているサインでもあります。

だからこそ、願いを否定したり、禁止したり、抑えつけたりする必要がありません。

願いを神に差し出すとは

それは「この願いを叶えてください」というコントロールではなく、
「この願いを通しても神と共に在りたい」と祈る姿勢です。

エゴの視点では、願いは「獲得のための行為」に見えます。

けれども聖霊の視点では、それは「赦し」と「統合」の入り口となります。

「聖霊 この願いを、あなたの光に捧げます。どうかこの願いを通して、わたしが愛の記憶に戻れますように」

このような祈りの中で、願いは浄化され「足りない」という思いから、「すでに与えられていた」へと変わっていきます。

祈りは本当にパワフルです。

心が無条件の愛を思い出すために、隠れていた恐れが光に照らされることがあります。

それを「後退」のように感じるときもありますが、実際には癒しのプロセスが始まっている証です。

そのときこそ、大いなる存在を信頼し、心の静けさに留まり、やさしく見守るレッスンであるとも感じています。

祈りは「否定」ではなく「差し出す」こと

「スピリチュアルなエゴ」として、

「欲を持ってはいけない」
「願いを持ってはいけない」
「願いは”手放さなければならない”(排除する、切り捨てるというイメージで手放すと思い込む)」
・・・そんな思いが隠れていた、ことがよくあるようです。

けれども、祈りは違います。

それは「否定」ではなく、「差し出し」の道です。

「願い」は、祈りの入り口となり、愛し愛されている存在であることを思い出す道の入り口になります。

「手放す」のは「真実だと思い込んでしまっている苦しみや恐れや価値判断」であって、まだまだ大切に思っているものを無理やり捨てることではありません。

願いを持っている自分をも、愛の中に招き入れること。

それが「赦し」であり、「祈り」の本質です。

願いが消えるのではなく、願いは「愛の延長」へと変わっていく。

そこに、祈りの静かな美しさがあります。

まとめ

願いは、神の愛(無条件の愛)への呼び声です。

そして「願いを神に差し出す」とは、その呼び声を聖霊の翻訳に委ねることです。

それは「願いを叶える(外向きの意図)」ためではなく、「願いを通して無条件の愛を思い出す(内向きの意図)」ための祈りです。

この世界に生きている限り、願望や欲求そのものは消えません。

ただ、その願いは次第に「不足を埋めるための願い」から「満たされているがゆえに自然と広がる願い」へと変わっていきます。

その真の願望は、愛の延長そのものであり、心を苦しみから解き放つ出口でもあります。

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