レベルの混同の具体例を、ChatGPTと一緒に整理してみました。
こうしてまとめながら、わたし自身、内観を深める時間を過ごせたように感じています。
ここでご紹介する「レベルの混同の具体例」は、「わたしにもあったなぁ」「今もあるなぁ」「これからも出てくるのかもしれないなぁ」と感じるものばかりです。たぶん、これからも混同は起こるでしょう。
「レベルの混同」を他者の中に見て、心が動揺することもあるかもしれません。
わたしにも、そんな瞬間がありました。
けれど、そのたびに思い出したいのは、「彼(彼女)の混同を現実だと見てしまう=わたしの心の中にも、まだ“混同が力を持つ”という信念が残っている」というサインかもしれない、ということです。
相手ではなく、自分の心を見つめ、レベルを超えた“同じ心”への回帰として受け取っていきたいと思っています。
それでも、自分を責めるのではなく、ただ立ち止まり、心の奥で本当に望んでいることを見つめ、少しずつ思い出していけたらいい。
外の世界に力を探すのではなく、心の中にある静かな力を感じながら生きていきたい。
そして、
「わたしは本当に愛され、守られ、養われている」
そのことを少しずつ実感しながら、これからも歩んでいけたらと思っています。
レベルの混同の具体例の前に
わたしたちは日々、さまざまな出来事や人、身体の状態の中で「これがあるから幸せ」「これのせいで苦しい」と感じることがあります。
奇跡講座の視点から見ると、そこには「レベルの混同」──
つまり、心(原因)と形(結果)を取り違えてしまう見方が潜んでいることがあります。
けれどもそれは、誰もが無意識のうちにしている自然な反応でもあるのではないでしょうか。
ですから、正すというよりも、「もしかしたら別の見方もあるかもしれない」と静かに気づいていくことが、癒しのはじまりになります。
人に愛を見ようとするとき
(例)この人の中に愛がある/あの人は冷たい
たとえば、「この人の中に愛がある」と感じるとき、わたしたちは、その人という“形”の中に愛を見ようとしています。
「この人(人格・個人という形のレベル)の中に、愛(スピリットのレベル)がある」と見ることは、奇跡講座では「レベルの混同」と呼ばれています。
けれども、愛というものは、相手の中に“存在している”というより、わたしの“見る目”の中に現れているのかもしれません。
誰かを優しく見ようとするとき、その優しさはわたしの中の愛がそのまま映し出されているのかもしれません。
そう思ってみると、愛は“誰かの中にあるもの”ではなく、
“見る心の中にあるもの”として感じられてくるようにも思います。
特別な場所に癒しを感じるとき
(例)この場所(パワースポット・自然・特定の地域など)には特別なエネルギーがある
ある場所に行くと、とても落ち着く、「ここには特別なエネルギーがある」と言いたくなるようなことがあります。
けれども、よく観察してみると、その平安は、その場所の中に宿っているというより、その場所を通して、自分の中の静けさを思い出しているのかもしれないと気づかされることがあります。
“場所がわたしを癒す”というより、
“わたしがその場所を通して癒しを思い出している”──
そんなふうに感じてみると、どんな場所でも心が穏やかでいられる瞬間が広がっていきます。
お金や健康を通して安心を求めるとき
(例)お金があれば安心できる/健康であれば幸せだ
「お金があれば安心できる」「健康でいれば幸せ」という思いも、とても人間らしいものです。
けれども、もし、安心や幸せが外側の条件によって決まるものではなく、心の中で思い出す感覚だとしたら?
お金や健康は、“安心を思い出すきっかけ”として現れているのかもしれません。
「深い安心が自分の心の中にある」と感じながら行動するのと、
心を置き去りにしたまま、焦りや不安、欠乏感から行動するのとでは、
同じ出来事であっても、世界の見え方がまったく違ってくるように思います。
そのように見てみると、不安や欠乏の中にも愛や安心を思い出す扉が隠されていることに気づく瞬間があります。
出来事を神のご褒美や罰と感じるとき
(例)この出来事は神からのご褒美(または罰)だ
「この出来事は神さまからのメッセージだ」「罰を受けているのかもしれない」
そう感じる瞬間もあるでしょう。
けれども、出来事そのものが神の意図を運んでくるというより、
その出来事をどう見るかの中に、神の導きが現れるのかもしれません。
苦しい出来事も、やがて心の見方が変わるとき、「愛を思い出すための小さなきっかけ」だったのかもしれないと感じられることがあります。
霊的成長を身体の変化と感じるとき
(例)わたしの身体が霊的に進化している
「身体が軽くなった」「エネルギーが広がった」と感じるとき、それを“霊的に進化した証拠”と受け取ることがあります。
けれども、霊的な成長とは、体がどう変化するかよりも、心がどのように見るかが変わることなのかもしれません。
身体はただの表現の道具。
どんな状態であっても、愛を思い出すための通信の手段として用いられています。
「体のせいで何もできない」と感じるとき
(例)体調のせいで何もできない/体調のせいで自由が制限されている
疲れや痛み、制限を感じるとき、「体がわたしを止めている」と思うのは自然なことです。
でも、ほんの少し視点を変えてみると、体が止まっているように見える時間も、愛を思い出す静かな機会として受け取ることもできます。
体が動けなくても、心の奥では祈りや優しさが流れている。
そう思い出すだけで、わたしたちはまた少し自由を感じはじめます。
さいごに
こうして見てみると、レベルの混同は「悪い間違い」ではなく、ただ、わたしたちが長い間そう信じてきた“見方の習慣”にすぎないことがわかります。
形に原因を置くかわりに、
「この出来事を通して、わたしの心は何を思い出そうとしているのだろう?」
と問いかけていきたいと思っています。