前回の記事・・・
こちらの回答の中で「わたしは長い間恐れが出てきていた」ということを書きました。
何度も何度もいろんな形の恐れ、そして、具体的な何かではない恐れが出てくる中で、
「おや?こわい、というのも、ただのわたしの思考・解釈では?」と思いはじめたことがありました。
以前、「こわい、嫌だ、不快だ」と感じたら「どこにも出かけず、誰とも離さず、ひとりになって休む」という時期がありました。
まさに「引きこもり」を何度もやっていたのです。
たしかに、こわいとか、嫌だとか、不快だという感覚、もっと遡れば「わたしがこわいと思う正当な理由」のようなものがあったように思えていた時期もあったと思うのですが。
そのように「こわいと思って、ひとりで引きこもる(一人の方が安心安全だと思う)」ということを何度も何度も、何年も繰り返す中で、
「おや?果たして、本当だろうか?」「・・・?」という余白というか、スペースというのか、そういうのがあったことがありました。
もし、わたしがあのまま「こわい、嫌だ、不快だ」という考えや感覚を絶対視し続けていたら、もっと長く、いろいろな物事を遠ざけながら、引きこもっていたかもしれません。
こちらの回答で「一番最近の話でも、まるで水の上を歩くかのような、こわさが出てきた。でも、そのまま外に出て、人と会う中で、まわりの人たちから、とても幸せそう!と声をかけられた」ということを書きましたが、
あのとき、わたしは、
「こわい、という感覚を、疑問視しつつも、でも、まだ抱えているようなところもありつつも、そのまま行動する(ガイダンスに従う)」
という日々を過ごしていたとおもいます。
「まだ、こわい、という感覚があるまま、過ごす」
「こわい、という感覚を、疑問視しつつ、聖霊を信頼したいという気持ちと疑う気持ちと両方ありつつ、行動する」
「それがガイダンス・導きかどうかさえもわからないまま、そのときの一歩を踏み出す」
というような感じ、と言えるかもしれません。
その中で「体験(その日出会った人から、幸せそう!と言われる)」がある。
それは、わたしにとっては「意外なこと、想定外のこと」で、ちょっと驚くような、でも、幸せなこと、心の奥に喜びを感じることでした。
もしあのとき「祈ったなら、先に、このこわさや、嫌悪感、不快感がなくなるはず。そのあとで行動しよう」などと、「聖霊はこうするはずだ」と頑なになっていたら、
わたしはまた「引きこもるの巻」を何周もしていたかもしれません。
そのようにして、幸せ、奇跡、”聖霊の愛の体験”を先延ばしにしつづけていたかもしれません。
ときどき「これがもしガイダンスなら、こうなるはず」「導きだったら、先に〇〇があるはず」「わかる」という言葉を聞くことがあります。
わたしも、そう思っていたことはあります。
けれども、あるとき「これが導きだったら、こういうふうな展開になるはずだ、という自分の読みを手放して、もっと深く明け渡す。そして、もっと大きな奇跡に心を開き、受け取る」というときが、くるのかもしれない・・・
一人ひとりのペース、その人にとっての現時点での最善、はそれぞれあるとおもいます。
それを判断できるのは「自分」ではなく、聖霊・・・
「あなたがいて、わたしがいる。あなたとわたし」という「個と個という分離の見方」という「勘違い」をした瞬間に、心の中に神から与えられたのが「聖霊」。
それは「ほんとうのわたし」と呼べると思っています。
なんとなく、ここ数年思うのは、
「感覚」や「感じる」というのは、「信」や「信じる」がそのまま反映されている、ということです。
この「感覚」を、純化されていきたい、神の愛に信を置いたものとして感覚したい、
恐れや制限の感覚から、解放され、幸せ・自由・喜びへと引き上げてください、そう願っています。