以前、心理学や、そのほかいろいろなヒーリングやセラピーを受けたり、学んだりしていたとき、よく潜在意識と言う言葉に出会いました。
そこでは、超意識、潜在意識、顕在意識、というものがあって、
この潜在意識のところに、自分でも気が付かないような、「ブロック」や「トラウマ」や「よくない心の習慣ー実際の習慣」や「過去の記憶」のようなものがある、だから、それを解放しましょう、というような感じで、
自分のほうで「そうなのか」と理解していたことがあります。
それでトラウマ関連を学び、セラピーをしていたこともあります(一時的なものでしたが)
それで、そんなセッションを繰り返すなかで、あるとき、「おや?」と思ったことがあったのです。
「潜在意識」は、実は、愛そのもの、無垢そのものなのでは?
「背景」のようなものは、実は、愛そのもの、無垢そのものなのでは?
ということです。
「ブロック」や「トラウマ」と呼ばれるもの、マインドの働きのようなものというのは、
実は、どちらかというと「顕在意識」の話であって「いま手放されるべきもの(解放の準備がもうできているもの)」は、いま、出てきている。
「(自覚しているという意味での)すでに気づいている」だったり、
あるいは「うすうす気づいている(=うすうす自分でもわかっている)」だったり。
何も問題ないのでは?
おや?
となったことがありました。
そのあと奇跡講座に出会って、その「あれ?もしかして?」という感覚は、完全に、体験によって(セッションによってというのも大きかったです)、ひっくり返されていくかのようでした。
「潜在意識に、なんだか得体の知れない、まるで怪物のような障壁やトラウマのようなものが横たわっていて、それを深掘りをするか、セルフリーリングをするか、セラピーを受けるかして、なんとかしなければならない」
と、心のどこかで、そんなふうな考えがあったことがあったけど、でも、それは、
「顕在意識」がエゴの眼鏡をかけて、潜在意識を見ようとしていたから、潜在意識に「エゴ(闇・影・トラウマ・問題)」が見えていたのであって、潜在意識が「なんだか手に追えない大きな怪物」を抱えていたわけではない。
「顕在意識」がエゴの眼鏡をかけると、潜在意識も、超意識も、聖霊も、神様も、そして、社会も、世界も、人々も、その「エゴ補正・エゴ翻訳」がかかって見える、ということがあります。(だから、そんなふうに見えるときは、立ち止まり、エゴではなく聖霊を選び直す機会、赦しを学ぶ機会でもあります)
潜在意識は超意識とひとつの純粋な光の流れそのもの・・・
それを、顕在意識がエゴを先生に選ぶとき、その流れを、「わがままで、だめなこと」と厳しく叱ったり、
あるいは、潜在意識が知らせる純粋な大いなる美しい流れを、「エゴを先生に選んだ顕在意識」が、「個人的な欲望」と解釈して受け取り、望んでいない方向に自ら進んでいる「かのように」錯覚したり、
していたのでは?
そういえば、先日。
以前、インターネットで潜在意識に願望を刷り込んで届ける、命ずる、という話を聞いて、そうなのか、と思い、それを一生懸命実践していて、疲れたことがあったけど、
セッションを受ける中で、あれってもしかしたら、神様に自分が解決策だと思っているものを刷り込もう、命令しよう、押し付けようとしていて、疲れたということだったのかなと思いました。
という気づきのシェアをいただきました。
(こういった情報は、もしかしたら、インターネット(YouTubeなど)や本だけだと、伝わりにくい・理解がずれやすいところもあるのかもしれないですし、どんなものでも一長一短あるとおもいますので、その情報がよかった・悪かったとか、そういう話ではないです。)
顕在意識の自分が、エゴを先生にして、心配して、解決策を探して、なんとかしようとして、「こうなれば解決」と潜在意識や超意識、神さまに、言い続ける、という努力や一生懸命さは、「悪いこと」などではなく、
おそらく、このようにして、ただ、「疲れる」かもしれません。
「それほど、必死だった、一生懸命だった、なんとかしようとしたわたし」を無条件の愛、豊かな愛そのものである神様は助けたくてしょうがないのではないでしょうか・・・
そして、自分で心配したり、コントロールしようとしたりしなくても、
その潜在意識、超意識、神を源泉とするすべては、小さなわたしの予測を遥かに超えた素晴らしい流れを準備して、まってくれている。かもしれない。
小さなわたしでは想像もできない、その大いなる存在の采配に、心を開き、信頼したい、とおもいます。
そして「顕在意識」では、エゴを導き手に選んで心配するかわりに、聖霊を教師に選び助けていただきたい、その優しい導きに心の耳を澄ませて、従いたい、と思います。