これがほしい、これをしたい、こうなりたい、叶えたい、
〜たい、〜ほしい
という願望、欲求、夢自体は、人間として生きていれば自然に起こる、ごく普通のことです。
たとえば「海外に住みたい」と思うなら、その思いをハートで大切にする、というのはとても素敵なことだと思います。
けれども「願い、思いをハートで大切にするということができない」ようなときがあります。
・”望み”のことを考えているのに、モヤモヤしたり苦しかったり一喜一憂するようなとき
・なんとかしなきゃという緊張やストレス、焦りが強くなるようなとき
・「努力しても叶わない」という壁にぶつかるとき
・「叶ったのに、満たされてない」「叶ったのに、不安」というとき
・「もう、この苦しみのパターンを繰り返したくない」と痛感したとき
・限界、疲れたと心底感じるとき
このようなときは、立ち止まる機会、
形も大事だけれども、”心”・”内側”へと戻るタイミング
かもしれません。
このようなとき、執着を手放すこと、恐れからの解放が大切だと伝えられることがよくありますが、わたし自身もそう思います。
執着を手放すことは「叶えるのを諦める、形を捨て去る」こととは異なります。
わたしは「何か願いが出てくる=浄化の機会、ゆるしの機会」としてずっと受け取ってきました。
ここでいう浄化というのは、マインドの浄化のことです。
ゆるし、というのは、マインドの働き、作用を、ただそのまま見て、理解する、という意味です。
「ただ見る」というのは、自分で分析したり、正しいか間違いかを決めたり、解明しようとしたり、意味付けしたり、結論づけしたり、答えを出そうとしたり・・・ということをしない、ということでもあります。
欲求と恐れはセットのようなもので「”望み”のことを考えているのにモヤモヤする」とか「自分ができる限りのことはしたけどうまくいかない」と思うようなとき、そこにはいつも恐れ、澱みがありました。
「恐れ」と一言で書きましたが、それはさまざまな現れ方をします。
なので、これまで「たくさんの恐れ」を見てきました。
ひとりではあまりにもこわく感じたり、難しく感じたりするときもあって、そんなときは、たくさんの方々に助けられてきました。自分自身の真実に戻るためにです。
「見ようとする」というよりも、ただそのまま静かにしていたら、自然と出てきます。
そして、その恐れにしがみつこうとしない、あるいは、恐れにしがみつきたいなら「恐れにしがみついていたい」というところを見る、みたいな感じでした。
執着というのは、この「恐れ、罪悪感、苦しみ」に執着するのをやめる、みたいな感じです。
そうして恐れを見ていると、恐れが恐れではなくなっていく、恐れのリアリティがなくなっていく・・・ということにあるとき気づきはじめました。
「恐れを見れば見るほど、恐れなくなる」と聞いたことがありましたが、まさにその通りだと思います。
闇は闇で見れば闇ですが、あるとき、「闇」の奥に隠されていた”ずっとあった光”に気づくことがあります。
そのとき、闇は闇ではなくなります。
「闇」の発生源が、素材が、光である発見をします。
この”光”は、たしかに、本当の意味での「解決」で「自分でなんとかしなきゃ」という重荷・緊張からの解放をもたらしてくれます。
恐れ、澱みを見ていく中で、最初の願いが本当の願いへと自然と変わっていたこともありますし、
「傲慢な願いなのではないか」と思っていたものを、あるとき、インスピレーション(神からのもの)として受け取りなおすようなこともありました。
それはどちらも愛の奇跡(知覚のシフト)でした。
今日、ある方から「何のセッションなの?(セッションの目的は何か)」ということを聞かれて、言葉にするということがありました。
その方とは、奇跡とか、心の癒しとか、自己探求とか、そういう話題をしたことがなかったので、なんと言えばいいだろう、と一瞬立ち止まりました。
そして出てきた言葉が「モヤモヤや苦しみ、葛藤、満たされなさを感じるとき、現実的な対処も大事にしているけど壁を感じるようなとき、自分の心と向き合うことで、すでにある本来の光り輝きに戻るセッション」という言葉が出てきて、
なぜかわたし自身が「そうか〜」と落ち着くような気持ちになっていました。
そして、日々のセッション・クラスなどでの「闇の奥にある、本来の光輝きの現れ、一致、解放」の瞬間のあまりの美しさ、感動が思い出されていました。