「ダメな自分が暴かれる恐れ」の中の「ダメな自分」がリアリティを失ってしまい、
残っていた「〇〇が暴かれる恐れ」というか、なんだか漠然とした恐れのような、恐れではないような、空白のような日々を過ごすなかで、
赦しや祈りを学んでいました。
奇跡講座は何度も「あなたは神の子である、あなたは光そのものである」と伝えてくれているのですが、抵抗していたのか、ピンとこないような感覚がありました。
このとき、祈りによって、何度も何度も浮かんでいたイメージとメッセージがあります。
それは「わたしはいろんな人と出会う中で、その人の中にある光を受け取り、つながり、ひとつの光になる・・(光を見ていく、光の線がどんどん増えていく)」というイメージ(心に浮かんだ映像)でした。
そして「これが豊かさである」という直感のようなものがありました。
ここでの「その人の中にある光を受け取る」というのは、その人の中にある光を見る、という意味です。
わたしはそれまで「豊かさ」の定義として「やりたいことがやりたいときにできる能力(バシャール)」だと思っていました。
恥ずかしながら、バシャールのことはほとんど存じ上げないのですが・・・。なぜか、この言葉が心にありました。
そして、たしかに、それはそうだと思うのですが、あのイメージとメッセージを受け取ってから、豊かさの定義がまた別の見方として与えられたような感覚でした。
「やりたいことがやりたいときにできる能力」ときくと、わたしは「行動(やるやらない)や個人的な能力(できるできない)」というレイヤーでの見方になっていたかもしれませんが、
あのイメージとメッセージを何度も思い出しているうちに「誰の中にもわたしの中にも同じ光がある」という見方へのシフトという感覚が強まっていきました。
そして、いまでも思い出すのが「いままでは違っていた、これからはこうだ」と思いかけた途端「いままでもずっとそうだった(ずっとその光の中にいた)」という感覚だったのです。
ここからしばらくの間、うまく思考できないまま、ただ、ずっと与えられ続けていたそれに浸っていました。
「誰の中にもわたしの中にも同じ光がある」とは見ていなかった、見ていない、ということも日々ありましたが、それでも「あなたの中にもわたしの中にも同じ光がある」というところに戻り、それに心を開き、信頼するなかで、あまりにも深い安心を受け取り続けていました。
たとえば、わたしは、母のことを長い間「あなたとわたしは違う」という見方で見てきたと思いますが、
「あなたの中にもわたしの中にも同じ光がある」というのは、たくさんの奇跡を与えてくれました。
あなたの中にも、わたしの中にも、同じ光がある。
あなたの中にも、わたしの中にも、ほんとうは同じ”平和”がある。
あなたもわたしも、いま、その神聖な平和を受け取るにふさわしい。
そう思うと、わたしはとても安心して「何かが暴かれる恐れの感覚」などは、すっかり忘れさられていったのでした。
わたしが隠していたもの、暴かれるのを恐れていたのは、この平和だったのではないか、と、これを書きながら思いました。
「なんとかしなくちゃ」「ちゃんとしなきゃ」「隠さなきゃ」と守ろうとすることが安全であり、平和だと、長い間信じ込んできたのかもしれません。
「あなたの中にある愛、平和に、誰もがふさわしい」
「わたしは平和(愛)にふさわしい」
そんな言葉が、いま思い浮かびます。
「暴かれるのがこわい」といって出し惜しみをする代わりに、光の循環の中へと溶けていくことを、自分自身に許可したい、と思いました。