お手紙(神像−福音)

誰かと接していて、ときどき、相手がわたしに「完璧な神様像」を求めているように感じることがある。

わたしの前に、その像があって、相手がその像と話しているように、感じる。

これを書きながら、わたしが「完璧という理想像」を作って「今のままじゃダメだ」と葛藤し、自分を責めがちだったとき、わたしはこの像になりたい、期待に応えたい、と思っていたのだろうか、という考えが浮かぶ。



「わたしはあなたのことを神さまのように見ているところがあるようです」と言われることもあって、そんなとき、わたしの中には、軽やかさや、開かれた感じを感じることもあった。

「祝福」という言葉が浮かぶ。

わたしも誰かや何かのことを神さまのように見て、慕って、求めていたときのことを、愛おしく思い出す。

それが、たとえ、依存だろうが「特別な関係」だろうが、そのときのわたしにはそれが必要だったし、その経験で感じたあのあたたかさや優しさや慈しみは、いまでも、すぐに、胸に蘇るかのようだ。



けれども、相手がわたしに「完璧な神様像」を求めているように感じて、相手はわたしのことを見ずに、その像を見て、その像としゃべって、その像とどこかへ行ってしまうように感じるとき、わたしの中に、また、あの、扉を強く閉めたくなるような感覚が出てくる。

身体が痛くなり、その痛みは、まるで、引きちぎられてしまうかのようだ、と思う。

今日ふと、そのときの感覚を、思い出した。

そのときの感覚を思い出して、胸のあたりに、硬い板のようなものを感じていた。

その硬い板が居心地が悪かったので「わたしの上に完璧な神様像を見ているかもしれない誰かへ」お手紙を書いてみたいと思った。



「わたしの上に完璧な神様像を見ているかもしれない誰かへ」

わたしは人間です。

わたしは神じゃないです。

わたしだって落ち込むときもあるし、褒められて嬉しいと感じるときもあるし、エゴに取り憑かれたようになるときもあります。

神の愛がこわく思えて、怯えて、動けなくなってしまうようなときもあります。

「わたしは完璧な神のような人間になったので、あなたたたちもそうなれる」と言いたいわけではありません。

「自分の思い通りに結果をコントロールする方法」を知っているのではなくて、

結果とはコントロールできないものであることを受け入れて、それによる深い安心を大切にしたいと願っているひとりなんです。

結果とはコントロールできないもの、というのは、いまのわたしにとって、福音です。

「わたしは魔法の杖の話をしたいのではなく、杖がなくても、転んでも、それでも大丈夫な場所がある」ということを、いちばん大切にしたい、と願っています。

「ゴールに到達したすごい人」と言われるとき、わたしはどこか、さみしさのようなものを感じます。

山のてっぺんに、一人置き去りにされた、孤独感のようなものを感じます。

そばにあなたがいるのを、この目で見て、身体で感じながら、わたしだけ、山奥に置き去りにされたような感じを感じます。

そうではなく、同じ道を、同じ痛みを抱えながら歩いているひとりでいたいとおもっています。

わたしは、あなたが求めるような完璧な答えは持っていません。

でも、わたしは一緒に途方に暮れたり、一緒にそのままでいいと安心したりすることはできます。

嵐をなんとかすることはできないけれど、あなたと一緒に安全なおうちの中にいて、窓の外から、今日の風はとくに厳しいね、そうだね、と、過ごすことはできます。

わたしは「魔法の杖を手に入れて嵐がなんとかなるかもしれない話」をしたいのではなくて、杖がなくても、転んでも、それでも大丈夫な場所があるということを、いちばん大切にしたい、と願っています。



・・・そうだった。

わたしはずっと「わたしは魔法の杖の話をしたいのではなく、杖がなくても、転んでも、それでも大丈夫な場所がある」ということを、いちばん大切にしたい、と願っている。

そして「結果とはコントロールできないもの、というのは、いまのわたしにとって、福音」ということを、わたしは頭でわからないまま、けれども、胸から全身にかけて感じる、とても微かなこの喜びの予感をそのままにしていていい、と自分に許可したいと思う。










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