投げやり(無責任)と丸投げ(真の責任)

丸投げという言葉にざわざわしていたときがありました。例:「神さまに丸投げ」「宇宙に丸投げ」など。

心底安心して「丸投げ」したくて、ちょっと違い整理したものを置いてみます。

丸投げによる真の責任、心の力、聖霊の導きを見せてもらうことに、大きく心を開けますように。

「投げやり(無責任)」と「丸投げ(真の責任)」の違い

投げやり、エゴの諦め(無責任)

「もうどうでもいい」「勝手にしろ」と、心を閉ざして分離を強める。

外側の状況(相手や環境)のせいにして、自分を被害者の位置に置く。

結果として、虚しさ、怒り、さらなる孤独感が残る。

丸投げ、ゆだねる、全託、サレンダー(真の責任)

「私には解決できません。助けてください(=自分の見方ではなく、あなたの見方で見たいです、心の癒しを受け入れたいです)」と、心を開いて聖霊を招き入れる。

「今、平和でないのは私がエゴを選んでいるからだ」と認め、その「選ぶ力」を聖霊に差し出す。

結果として、深い安心感、見方の変化、真の平安が訪れる。

丸投げのための「わたしのお仕事」の部分

(1)エゴのドロドロを「直視」する

「〇〇さんが憎い」「あの人が嫌いだ」「私は被害者だ」という醜い、あるいはドロドロした感情を、隠さず、裁かず、そのまま認める。「これはエゴの働きだ」と正体を見破ることが、わたしの「仕事」の第一歩です。

(2)自分の「無力」を認める

「このドロドロを、自分の努力や反省で消し去ることはできない」とはっきり認めます。

自分で何とかしよう、闘おうとするのをやめる、聖なるサレンダーです。

(3)聖霊に「丸投げ」する

「この感情も、自分を裁く思考も、丸ごとあなたに差し出します。私は癒やされたいという意欲だけを持ちます。あとの書き換えは、聖霊、あなたにおまかせします」と、解決の全責任を聖霊にゆだねます。

「自分の見方ではなく、あなた(聖霊)の見方で見たい。癒やされたい」などの意欲を心の中に見つけて聖霊に差し出すことは、自分の心に受け取り許可を出すこと、みたいな感じでもあります。

    これを書きながら、奇跡講座のテキストで思い出した箇所があります。

    自我の憎しみを見てその全容を認識することが、なぜこれほど重要なのか、あなたは不思議に思うかもしれない。

    あなたはまた、あなた自身が憎しみを自覚しなくても、聖霊がそれをあなたに見せて消し去ることは、十分に容易なはずだと考えるかもしれない。

    だが、あなたが自分自身と贖罪との間においた障害がもう一つある。

    恐れを認識したならそれを黙認するものなど誰もいないと、私たちはすでに述べた。

    だが、あなたの無秩序な心の状態においては、あなたは恐れを恐れてはいないのである。

    (中央アート出版 奇跡講座T-13.3.1より引用)

    この箇所をはじめて読んだとき、わたしはまさに「なぜ、”ここまで”、エゴについて認識していく必要があるの?」と考えていて、まるで心を読まれていたかのようで、驚いたことを覚えています。

    奇跡講座には「エゴの全容」について書かれてあり、エゴを理解し、エゴをゆるしていくことを学ぶからです。

    けれども、聖霊と共に心を見ていくなかで、たしかに見えてくるのは「恐れを恐れていなかった。それどころか、恐れを喜び、喜びを恐れていた」ということです。

    自分や誰かや何かを責めることで得られる偽りの安心(特別性)に、自分がしがみついていたということが、解像度高く、実感を伴って、見えてきます。

    「丸投げ(ゆだねる)」とは、単に楽をすることではなく、自分が握りしめていた「裁きという盾」を降ろすという勇気ある決断です。

    「自覚」がなければ消去できない理由

    「あなたはまた、あなた自身が憎しみを自覚しなくても、聖霊がそれをあなたに見せて消し去ることは、十分に容易なはずだと考えるかもしれない。」

    聖霊はわたしたちの中の「選択する力」を100%尊重します。

    自分がまだ大事だと信じ込んでいるもの、「私は苦しむ権利がある」と握りしめているものを、無理やり奪うことはしません。

    ただただ全肯定の光で照らしつづけ、心が愛を選ぶことを、待ってくれています。

    聖霊は、わたしが「私は苦しむ権利がある」と握りしめているものを、無理やり奪うことはしません。

    自分が「これ(恐れ)は、私を救いから遠ざける障害物でした。もういりません」と自覚して、自分から差し出さない限り、聖霊がそこに手を触れることはできないのです。

    恐れを手放して、愛を選ぶということは、

    ・誰のせいにもできなくなるということ

    ・「自分は被害者だ、犠牲者だ」「努力して反省することで自分でなんとかしていける」という、長年慣れ親しんだアイデンティティが消えてしまいます。

    ・そして「自分は完璧に愛されている神の子であり、分離などしていなかった」というあまりにも眩しい真実に直面します。

    エゴにとって、この「神との一体性(救い、ワンネス)」は、個としての自分というドラマの終焉を意味するため、死ぬほど恐ろしいのです。

    エゴは、「ドロドロとした感情、おそれ、罪悪感、自己否定の信念」を大切に隠し持っておくか、あるいは「自分を裁く道具」にして、いつまでもそこから出ないように働きます。

    丸投げ(真の責任)とは勇気を伴うものだな〜とおもいます。

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