わたしは長いあいだ、転換期の中にいるような感覚がありました。
今振り返ると、「心理学の視点」と「霊的な視点」の違いがまだ曖昧なまま、心理学的な学びやスピリチュアルな実践に導かれていたように思います。
スピリチュアルにもさまざまな流派があり、それぞれが尊重されながらも、最終的には同じひとつの山頂へと向かう道である——一瞬それに触れた経験はあっても、そして「知的な理解」として知っていても、その全体像を見渡す目が、まだ育っていなかった時期もありました。
とくに「境界線・バウンダリー」のテーマは、心理学的な理解と霊的な理解が調和するまでに時間がかかりました。
今振り返れば、その時間そのものが“抵抗”でもあり、“導き”でもあったように感じます。
わたしにとって境界線とは、光からのガイダンスのようなものだったのです。
当時のわたしは、「古い信念体系や価値観の中にいるように見える誰か」を見て、「変えよう」としていました。
両親やパートナーのように、心の近い存在ほどその傾向が強かったと思います。
そして気づいたのです。
「相手が自分を変えようとしている(ように見える)」「相手から『あなたは間違っている』と言われている」と感じていたけれど、実際にはわたしの方がそうしていたのだと。
わたしが、「わたしは正しい、あなたは間違っている」という自我の錯覚の中にいたのだと。
そのことに気づいたとき、心の窓が全開になり、さわやかな風が流れ込んでくるような解放を感じました。
ちょうどそのころ、母から突然「お母さんを自由にしてくれてありがとう」というメッセージが届きました。
前後で特別な会話をしたわけでもないのに、まるで心の変化がそのまま届いたかのようで、今も忘れられない出来事です。
今振り返って思い出すのは、心理学でも、スピリチュアルな学びの場でも、入り口にはいつも「境界線」というテーマが置かれていたということです。
境界を引くことは、たしかに痛みを伴うこともあります。
恐れや罪悪感、迷い、疑い、さみしさ・・・まるで何かに後ろ髪を引かれるような感覚。
けれども、その痛みを抱えながらも静かに自分の心の答えを認めるとき、わたしたちは内なる力を思い出しているのかもしれません。
「これは正当化ではないか」「傲慢ではないか」という疑いが次々に浮かぶようなときこそ、実は光に最も近づいていたのだと、今は思います。
そうして、意識が内側へと向いていくなかで、自然と統合期へと導かれていきました。
無条件の愛の中で、わたしたちは本来ひとつです。この記憶を共に分かち合うことができますように。
たとえ言葉の形、具体的な事柄が違っていても、その奥に流れているものが同じ光であることを、共に思い出せますように。