ときどき、どうしようもないほど動揺することがある。
動揺するとき、それはどんなときだろう。
誰かの強固な枠組みに、わたしのエネルギーが無理やり流し込まれそうになるとき。
その自由を奪われるような圧迫感に、身体は悲鳴をあげ、一刻も早く、その場から逃げ出したくなる。
「言葉とエネルギーの食い違い」に触れた瞬間、わたしの中で警報が鳴り響く。
その不一致の渦に巻き込まれることに、わたしの命がもう耐えられない、と叫ぶ。
表面的な「正解」だけで塗り固められた時間の虚無。
そして、その奥にある生身の痛みは隠されたまま、触れさせてもらえないようなとき、わたしは救いようのない孤独に突き落とされる。
その「心の通わない時間」に身を置くことは、わたしにとって死も同然だ。
このようなとき、扉を強く閉めたいような気持ちになる。
わたしは、ただ、限界だ、と思う。
『心を開くつもりがない人』を見るときの、あの凍りつくような孤独にも、わたしはもう一秒も耐えられない。
『なんとかするーなんとかしてもらう』という枠組みの中にも、もう、一秒も滞在したくないと思う。
『言葉とエネルギーの食い違い』『正しさで塗り固められた絵』を見るとき、ブラックホールに突き落とされるような感覚になり、ただただ、逃げ出したくなる。
求めてくる人全員を受け入れなければならないという『善き救済者』の重圧から心を解放して、一刻も早く逃げ出したくなる。
誰かに許されなくても、たったひとりぼっちになったとしても、わたしはその場を一刻も早く立ち去り、あのひんやりと静かで心地いい場所に戻りたい、そして、大きく息をしたい、と思う。
形を整えるための場所は他にいくらでもある。
相手がそれが心地いい、そうしていたいというなら、それを大事にしたらいいと思うし、わたしも自分が安心することを自分に許可したいと思う。
誰もわかってくれなくても、誰も許してくれなくても、わたしはわたしが安心することを許したい、と思う。
「あなたの心地いい」と「わたしの心地いい」が異なるとき、無理矢理交わろうとすると、わたしは死にそうになるんだった、と、これを書きながら、また、思い出した。
相手にそれを受け入れさせようとしたり、自分が無理矢理受け入れようとしたりするのは、自分への暴力のようだと思う。
「なんでも受け入れたい(たとえそれが死であったとしても)」というあのエネルギーは、まるで、ブラックホールのようだと思う。
ブラックホールのようで、その様子はまるで愛を乞うているようだ、と思う。
そのとき、あの、ひんやりとした気持ちのいい場所が、どこかへ消えてしまったように感じることがある。
この身体が悲鳴を上げるとき、わたしは、その限界を認めて、立ち止まりたいと思う。
心を死に捧げたくない。
わたしは、一つひとつの思いが、一つひとつ、ただそのまま認められ、受け入れられていくあの安心、安全、安堵。そんな内的真実と一致していくプロセスを大事にしたい。
わたしは、それほどまでに、内側のそれを守りたい、と思う。
目次