信頼とはなんだろう?なんだと思っているだろう?
「信頼」ということについて、果たして、どんな解釈を与えていただろう?
(例)
・約束を守ること、守られること
・うまくいく(”わたし”が納得するような形でうまくいく)と”わかって”いること
・未来が保障されていること
・誰かや何か(パートナー、仲間、家族、神、仕組み)などが(”わたし”が納得するような形で)守ってくれること、支えてくれること
・子ども、後輩、部下たちが、自分が思い描いた通りのルートを正しく健康に辿ること、自分の想定通りの道のりを正しく健康に歩むこと
・相手が「”わたし”の期待や信念や価値観」を裏切らないこと
・他者が「”わたし”と同じ未来像、信念、価値判断」をわたしと同じ熱量で信奉していること
・・・などが、ずるずると出てきて、途中から笑えてきた。
その上で「信頼とはなんでしょうか?ほんとうの信頼とはなんでしょうか?」と尋ねてみる。
わたしはほんとうになにもわかっていないから、どうか教えてほしい、と思う。
すると「雨の日も晴れの日も曇りの日も虹が出る日も、変わらずにそこにある、天気に左右されない地面」と浮かんでくる。
雨が降っていても、霧が出ていても、見えなくても、揺れていても、忘れていても、
どこかを踏んでいる。
どこかに触れている。
ここにいる。
気分がいいからとか、安心できるからとか、正しいからとか、
そういう理由で、信頼する、信頼があるとかじゃない、ということが見えてくる。
「あなたはこうだから」とか「わたしたちはこうするって約束したから」とかでもなく。
「無条件にいつもそこにあるもの、そばに一緒にあるもの」という感じがしてくる。
そしてそこには、”わたし”が普段感じているような「安心安全」という次元ではない「安心安全」のような何かがあるような感じがしてくる。
そして、その無条件のなにかというのは「人が」が与えるものではないのかもしれない、と思えてくる。
誰かと共に、それに触れる感じとか、思い出される感じは、あるかもしれないけど、
でも「この人が信頼を与えてくれて、あの人は信頼を与えてくれない」という話でもなさそうだ、という感じがしてくる。
なぜなら、みんな”あの地面”には触れているはずだから。
「この人が信頼を与えてくれて、あの人は信頼を与えてくれない」というようなことを思いたくなることがあったとしたら、それはもしかしたら「人それぞれ」の話ではなく「そのときどき」の話なのかもしれない。
そして、意識していなかっただけで、その純度みたいなものを感じているものなのかもしれない。
感じるなかで、その純度が思い出されていっているのかもしれない。
”自分”が安心していようが、不安を感じていようが、それに左右されずにそこにあるなにか。
「それに左右されずにそこにある何か」は、自分が感じている安心にも不安にも左右されずに、ただそこに無条件にいつもある。
”わたし”が今、深い安心を感じているからといって「はい、いま、安心しましたね?そこに留まり続けましょう」と圧をかけてくることもしないし、
”わたし”が今、不安を感じているからといって「いま不安を感じるということは、一生不安を感じるということ。なぜなら思考が知覚を作り、知覚が行動を作り、行動が現実を作るのだから」と囁くようなこともしない。
この「時間軸の中」で、「人間として」、「身体を持って生きる」なら、安心と不安、恐れ、不足は、必ずあるということ。
なぜなら、その条件下において、「わたしとは人間であり、この身体であり、未来があり過去があるから」だから。
それ自体は、おかしなことでも、間違ったことでも、なんでもなく、ある意味デフォルト設定のようなものなのかもしれない。
でも、その前提を見てみぬふりをして、すっとばしたまま「不安はない、恐れはない、不足はない」と平気なふり、感じないふり、誤魔化しをしても、問題や不足を外に作り続けるだけだけど、
不安は不安のまま、恐れは恐れのまま、不足は不足のまま、”見て”いくなかで、だんだんと景色はただ景色として見えてきて、「誤った前提」が浮かび上がってくることがある。
そして、変化というのは誤りを誤りとして”見る”ことで起きるもの。
誤った前提が浮かび上がっているのを”見て”いるとき、雨に絶望したり、虹に出会いたいと恋焦がれたりしていたがゆえに体験しなかったことを、体験しているものかもしれない。