祈りとは本当のわたしの出会う時間

わたし自身は 奇跡講座(A Course in Miracles) の学びを土台としていて、セッションやクラスでは、心の癒しや祈り、与えることと受け取ることについての気づきを分かち合っています。

セッションやクラスを共にしてくださる方の中には、奇跡講座を学んでいない方も多くいらっしゃいます。

ブログだけ読んでくださっている方の中は、直接聞いたことがないのでわかりませんが・・・奇跡講座は学んでいないという方がたくさんいらっしゃったとしても不思議ではありません。

そして、わたしは、奇跡講座を学ばなければならない、とは思っていません。

それぞれの方が、どのような道や言葉、信念体系を通していても、その奥に流れる「愛への回帰」という共通の道があると感じています。

ある意味、わたしは、どんなときでも、どんな関係性の中でも、共通して共に思い出せる愛への回帰の道を求め、歩み続けたいと思っていて、そこに心の鏡のようにして出会ったのが奇跡講座だった、といえるかもしれません。

いくら「心にすべての力がある」と言っても、それだけではブレたり、視界が不明瞭なようになったり、確信がゆらぐというとき、このように学びの土台としての教えがあることは、とてもありがたいことです。

目に見えない領域だからこそ、その実践を重ねる中で「言葉」や「区別」が明確に記されていたことも、わたしにとっては、まるで足取りを軽やかにしてくれたような感覚を感じています。

だからこそ、このブログで使う「神」「祈り」「心の声」という言葉も、特定の宗教や流派を指すものではなく、

すべての人の内にある無条件の愛の源泉・心の平和・真実という感覚の表現として受け取っていただけたらと思っています。

そして、ここで「自分自身との対話」という言葉を使うときも、心理的なセルフケアや思考整理というより、

“静けさの中で、より深い真実の声を聴くひととき”という意味で使っています。

わたしは、あらゆる伝統的な教え、そして現代の心理学的・身体的アプローチも含めて、すべてが人を愛へと導く多様な入り口のひとつだと感じています。

どれかを否定するのではなく、それぞれがたったひとつの光へと戻る道として尊敬しています。

様々な教え・信念体系を超えて、誰の中にもある”たったひとつの源泉”に静かに心の耳をすませ、

一つひとつの思いや恐れの奥に「大切な小さな祈り」を見つけ、神聖な光でやさしく包まれるひとときを「祈り」としてご一緒できたらいいな、と思っています。

みなさんと共に祈りを学んでいくと同時に、祈りについての混乱や迷いのご質問も増えてきました。

わたしは、そのこと自体もまた「祈りを深める中で誰もが通る道」だと感じています。

わたし自身、誤解や混乱が晴れていくときには、経験者の「誰もが通る道」という言葉に支えられてきました。

そして、その流れの中で、軸の部分を明確に言葉として残しておきたいとおもいました。

こちらの記事は、そんな背景の中で、「祈るということの意味」「祈りとは本当のわたしと出会う時間」ということについてを言葉にしたものです。

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