今回は、最近、いただいたご感想や体験談メールを掲載するようになった理由を書いてみたいと思います。
わたしは過去に、いただいたご感想や体験談を、ブログに載せないようにしていたことがあります。
理由はいくつかあったのですが、そのひとつとして「そのとき、闇の中にいる方にとっては、そうした声が眩しすぎるのではないか」と感じていたからというものがありました。
誰かの感想や変化の物語は、心のどこかにあたたかさや希望を思い出させてくれることもあるかもしれないけど、かえって嫉妬や自責、比較といった苦しみ引き起こしてしまうかもしれない。
わたし自身も、かつてそのような経験したことがあるからこそ、そう思ったのです。
それよりも、静けさや落ち着きを差し出すことの方が、その人の心にそっと寄り添うことになるのではないか・・・
そんな思いが、わたしの中にはあったように思います。
けれども、あるときふと、こんな問いが心に浮かびました。
「光が眩しすぎるから」と、光そのものを遠ざけてしまうことは、もしかしたら、その人の“闇”だけを見ていて、
“光”の力や、その人自身が光へ向かう可能性を信頼していないことになるのではないか・・・と。
それから、わたしの中にあった無意識の前提が、少しずつ揺らぎ始めました。
そして、「わたしは闇に迎合したくない。もしかしたら、迎合していたのではないか」そんな気づきが、静かに胸に広がっていったのです。
わたしは今でも、誰かの闇に寄り添うことを大切にしています。
けれども、「闇に寄り添うこと」と「迎合すること」は、似ているようでいて、本質的には異なります。
「闇に寄り添うこと」は、同じ場所にとどまり続けることではありません。
ときに、「闇の中にいることに安心してしまう空気」や「変わらなくてもいい」という、停滞感を感じることもあります。そして、それはわたし自身も、かつて経験してきたことでもあります。
わたしが本当に願っているのは、共に光を見つめていくことです。
「光もまた、分かち合いたい」──その心の奥にある静かな思いを、大切にしたいと思いました。
いただいた声や体験談をシェアすることは、わたしにとって、心を信頼して差し出すことです。
「自分もこの心の中にある光へと歩んでいけるかもしれない」という希望の光と、静かに響き合いたいという願いからです。
それは、誰かを比べさせたり、置き去りにしたりするためではなく、その人の中にすでにある“可能性”をそっと呼び覚ます光だと、今は感じています。
闇にいる人こそ、自分の中にある光を信じていい。
そのことを、わたし自身の歩みと、みなさんの歩みを通して、共に思い出していけたら・・・
そんなふうに願っています。