言葉と行動の一致(言行一致)は、大切です。
わたし自身を振り返ると・・・
わたしは以前「自分が言っていることに注目する、観察する」という”練習”へと導かれていたことがありました。
ここでの「導かれていた」というのは、「それをしてみたい、それがとても大切な感じがする」という感覚を強く感じて、それをするのが苦じゃない、むしろ楽しいかも、みたいな感じです。
そのときはたしか「でも、だって、どうせ」「だから」など、ある特定のワード(これを言うと相手を不快にさせてしまう、というような言葉です。具体的なことは忘れちゃった)について、
「自分は使っているだろうか?調べてみたい」というような、そんな思いから、まずは、自分の言葉に注意を向け、観察するようになりました。
そうしたら、もう、言ってる言ってる〜!言いまくってる〜!いや〜!
早速「神様 どうしたらいいですか」と相談しました。
わたしの場合は「相手を不快にさせないようにする」ということが目的ではありませんでしたし、神様も「そのまま観察を続けるように(それだけでいいよ)」と言っている気がしました。
気のせいかもしれませんが、それは、この心を、ホッとさせ、落ち着かせ、安心させてくれるものでした。わたしにとっては、そのことが何よりも大切なことで、ありがたいことでした。
そして、引き続き、自分の言葉、そして行動を観察するようになりました。
ただ、観察している。
すると、なんというか・・・優しい気づきを受け取れることがあります。
そして、これも、気のせいなのか、なんなのか、そばにいる人が、わたしを見ていて教えてくれることも、なんだか優しいものに感じられる。
光に頼ると、光の方向へとに導いてもらえます。
あれから何年も経って。
最近、もう、ずっと、わたし自身受け取り続けているメッセージが、
感情と感情の一致
思考と感情の一致
です。
これは、少し前にもブログに書いて消しちゃったのですが「また書きたい」となりました。
今、感じている感情。
今、上がってきている感情。
それを、ただ、感じること。
それが、どんな感情であったとしても、自分が自分に、感じることを、許可していくこと。
状況によっては「難しい」ということもあるかもしれないから、一日中じゃなくてもいいし、忘れちゃうことは誰にでもある。
でも、今、感じている感情を感じるときを、作りたい。
このことを大切にしたい。
感情だけは、誰かが、代わりに感じてあげることができない。
目の前の誰かの代わりに、わたしが悲しむことによって、相手の悲しみがなくなる、ということはない。実は、これでは、一時的にはそうじゃなくても、長い目で見たときに、逆効果のようなことになる。
そして、「本当は悲しいのに、大丈夫なふりをしている」というのは、自分が自分を無視してしまうようなことだと思っています。
「わたし」は、実は、そんなに多くを必要としていないのかもしれません。
「わたし」が必要としているのは、ほんの一瞬、立ち止まって、「何を感じているのかな?」という興味関心を捧げてもらうこと。もしかしたら、たったこれだけでも、「わたし」は、とても喜んでくれるのかもしれない。
そんなふうに、思ったことを、今、思い出しました。